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……繁華街の一角で橘先輩を待つ。クリスマスイヴのメインストリートは、赤白緑のクリスマスカラーで彩られ、街のそこかしこから甘いお菓子の匂いが漂ってくる。店先はどの窓もイルミネーションで装飾されて、手をつないだり、腕を組んだりして幸せそうな人にしているカップルでいっぱい。私もこれから、この中のひと組になるんだ。うきうきしながら腕時計を見る。待ち合わせ時間まであと2分。橘先輩、早くこないかな。
それから数分、待ち合わせ時間を過ぎても橘先輩は来ない。ちょっと不安になって、ぐるりと辺りを歩いてみる。でも、先輩を見つけることはできなかった。そうだ、ひょっとしたら場所を間違えてるのかも。それとも先輩のことだから、待ち合わせ時間を一時間くらい勘違いしているのかもしれない。きっとそうだ。私は一人、幸福の笑い声の渦の中、橘先輩を待って佇んでいる。
更に一時間経っても先輩は来ない。薄く曇った空はちらほら雪が舞い始めた。橘先輩、寒いです、早く来てください。口の中でそう呟いても、先輩がくる気配がない。ずっと立っている足が痛み始めてきた。
「先輩……早く来ないと私、帰っちゃいますよ?」
そうつぶやいた声は、自分でも驚くほど悲壮感に見て居ていた。その時。遠く人混みの中に、見覚えのある顔が現れた。
「橘先輩!!」
思わず声を上げる私。先輩は幸せそうに笑って、こちらに向かって歩いてくる。
「先輩、いくらなんでも遅すぎで……」
言いだした言葉を最後まで言えなかった。橘先輩の両隣には、嬉しそうに笑う顔の女の人。この前、橘先輩と一緒に居た女の人達だ。そして、それよりもっと嬉しそうな、鼻の下をだらしなく伸ばした橘先輩。
「橘先輩……?」
その場に足が刺さってしまったかのように動けない私の横を、私の事など見えていないかのように橘先輩達が通り過ぎる。女の人の一人が、こちらを向いて蔑むようににやりと笑った。次の瞬間、私の足元が崩れ、私の身体は真っ暗な闇の中にまっさかさまに落ちて行った。
わけがわからず、恐怖に声を挙げようとしたが声は出ず、代わりに口からはごぼごぼと泡が噴き出した。どうやら、私は水の中にいるらしかった。水面を求めて手足をばたつかせてもがく私。見上げても水面が見えない。水が重たくて手足がうまく動かない。怖い。どんなに浮かびあがろうと頑張っても、身体は沈んでいく。全身に何かがまとわりつくような感覚が襲いかかって、私の身体は引きずられるように沈んでいく……
そこで、私は夢から覚めた。真っ暗な部屋、自分のベッドの中。心臓が激しく音を立てている。体中に汗をかいて、パジャマが気持ち悪く肌に張り付いていた。私は夢を見ていたのだと理解するまで数秒かかって、枕元の多機能時計を見る。12月15日、午前3時すぎだった。
ぐっしょり濡れたパジャマを替えて、私はベッドに座り込む。もう一度枕元の時計を見る。この時計は、昨晩、誕生日を迎えた橘先輩にプレゼントしたものと同じものだった。
「弱いな、私……」
呟いて、ちょっと涙がこぼれた。橘先輩を自分から遠ざけ、水泳に専念するために、もう私のところに来ないでください、と橘先輩に言った私だったが、橘先輩の笑顔が見たくて、私は自分から前言を撤回して、橘先輩の自宅を訪れてプレゼントを渡した。橘先輩は嫌な顔ひとつせず、私のプレゼントを子供のように喜んでくれた。プレゼントを「七咲だと思って枕元に置く」とまで言ってくれた事に、先輩の前では冷静を装っていたが、先輩と別れてから、私は舞いあがって、帰りに先輩に買ったのと同じ時計をもう一つ買って、自分の枕元に置いた。
今さっき悪夢に現れたクリスマスイヴまで、実際にはあと9日。背泳の選考に通れたら、イヴに橘先輩を誘おう。きっと、先輩はプレゼントを渡した時みたいに喜んでくれるはずだ。私は時計を手にとって、それを橘先輩であるかのように優しく胸に抱いて、再びベッドに潜り込んだ。
翌日から、私は練習のメニューを増やした。ハードなメニューに加えて、部活の時間が終わっても、時間の許す限りプールで自主トレーニングを続け、部活外の時間も河川敷などでジョギングに励んだ。オーバーワーク気味であることは判っていた。けれど、無理にでも身体を動かしていないと、選考まで自分の心がついて行きそうになかった。
私自身から逃げたいと思う私の気持ちとは裏腹に、タイムは奮わなかった。今まで自由形選手だった私にとって、それは当然の現実だった。普段背泳など殆ど練習していないのに、転向して一週間で校内の選考に通ろうなんて、そんな甘い話があるはずはない。でも、私はその現実をわざと無視した。思う通りに動かない身体も、ますます抵抗感を増す水も、時々遠くから不安げな顔を見せる塚原先輩も、私自身の橘先輩に対する気持ちも全部、全部無視をした。
結局、背泳の選考にも私は落ちた。当日は、全てがぐちゃぐちゃに崩れていた。飛び込んだ時からゴールにたどり着くまで何一つ褒めることのできない泳ぎ。当然、タイムも無残なものだった。これまで下がり続けたタイムに、ついに水に入ることすら怖いと感じ始めていた私は、部員たちの私を見るいたたまれない視線が辛くて、その日、私は部活が終わる時間よりも前に、プールから逃げるように退出した。
翌日、昼休みに顧問から呼び出され、私は職員室で背泳の選考からの落選を宣告された。私は誰とも会いたくなくて、屋上で時間を潰していた。春から秋までは校庭の木々の四季がよく見えて、お弁当を食べるのにちょうどいい休憩場所として人が集まる屋上も、12月は制服の中にセーターを着ていても肌寒く、人の姿はほとんどない。でも、それが私にとっては都合がよかった。私は沈んだ気分のまま、とぼとぼと屋上を歩く。
でも、そこには私が今、一番自分を見せたくない人が居た。
「七咲」
「あ、橘先輩」
橘先輩の前で、私は一瞬で「後輩としての七咲逢」を用意する。クールで、面倒見が良くて、いつも橘先輩をちょっと上から見ている、生意気な後輩としての私。
「選考……どうだった?」
開口一番、先輩は私が一番聞かれたくないことを聞いてきた。
「結局、背泳もダメでした。さきほど、顧問の先生から言われてしまいました」
こともなげに答えた。心の片隅が痛んだような気がした。
「え……」
ショックを受けたような顔の先輩。
「仕方ないんです。種目を替えて、いきなりいいタイムが出るなんてこと、ありませんから」
先輩の顔をまっすぐ見ないように、私は目線を外した。
「でも、それじゃ……」
「先輩、私、案外大丈夫ですよ」
橘先輩の言葉を遮り、そう言って私は、精一杯笑ってみせた。
「大会は来年もありますから。来年こそ私、選考に通ってみせます」
私が吐いたその言葉は、まぎれもなく自分と橘先輩両方に向けた言い訳であり、強がりであった。でも、言い訳でもそうやって言えば。
橘先輩。来年も、私を見ててくれますか。
そういう打算が、私の心のどこかにはあったのだと思う。
「……そうか。頑張れよ」
橘先輩が何か、私に言いたいことを呑みこんだような顔をする。
「ええ。それでは、私はこれで」
私は橘先輩をみているのが辛くて、その場を去った。先輩と別れてから、女子トイレの個室で、私は少し涙を流した。
放課後の部活、再び自由形で自主トレーニングをする。選考の直後で、部活は数日間の自由参加になっていて、参加者もまばらだった。受験を控えた塚原先輩の姿もない。やがて日が沈んだ頃、プールに残っている者は私以外誰も居なくなり、しんと静まりかえるプールの中で、私が泳ぐ水音だけが孤独に響いていた。
一人で泳ぎ始めてしばらくして、私は身体に疲労から来る重さを感じてプールから上がり、プールサイドに座り込む。誰も泳がないプールは、循環する水の力だけで僅かに水際が動いていて、人の居なくなった世界に自分だけが居るようで、心細くなった。
スイムキャップを外し、滴る水滴を放ったままで、私は水面を見つめていた。誰も泳いでいないプールは、まるで水が襲ってくるかように、昏く、深く感じられた。そして次の瞬間、私は心の中に大きな恐怖を感じた。昏くて深いのはプールの水ではなく、私の心の闇だと気付いたからだ。自分にとって唯一の誇りだった水泳で失敗した今、私を支えているものは、私が作った、冷静を装う七咲逢というハリボテの人物像だけ。それに気付いたとき、紙のように薄っぺらな私の心は、くしゃり、と音を立てて崩れた。
視界がぼやける。目から涙があふれてきていた。続いて、嗚咽が漏れた。誰も居ないプールに私のすすり泣く声が響く。
「橘先輩……」
橘先輩も、塚原先輩も、自分の我儘で遠ざけたのは他でもない自分なのに。都合がいい。そう思っても、私の口からは弱音がこぼれる。
「橘先輩……寂しいです……」
そうつぶやいた時、私の背後でプールの扉が開いた。びっくりして立ち上がり振りむくと、そこには橘先輩が立っていた。
「七咲?こんなところで何をしてるんだ?ほかの部員の皆はもう帰ってるのに」
先輩は怪訝そうな表情で私の事を見ていた。
「橘先輩……?」
先輩、どうしてここに居るんですか。先輩、水泳部員じゃないのに。
「七咲?……泣いてるのか?」
橘先輩は私の顔を見て、心配そうにこちらへ歩きだす。
「あ……」
見ないでください、先輩。
私は、そのまま地面を蹴って、背後のプールに飛び込んだ。
嘘をついてばかりの、惨めな自分の姿を橘先輩に見られたくなかった。橘先輩にあわせる顔が無かった。水泳しかなかった私が水泳でのプライドを失って、最後に残っていた作りものの私も失って、もう私の中には何もないのに、そんなにまっすぐな目で見られたら、耐えられませんよ、橘先輩。
水の中に逃げれば、制服を着た橘先輩からは逃れられるだろうと思ってた。もういっそ、このまま身体が浮かび上がってこなければいい。愚かな私の身体なんて、水の中で融けてなくなってしまえばいい。そう思ったけれど。
私の思惑とは裏腹に、橘先輩は。
「七咲っ!?七咲っ!!」
橘先輩は制服のまま、迷わずプールに飛び込んできた。もがくように水を掻いて、先輩は私の方へ泳いできて、私はそんな先輩から逃げるように泳いで離れる。
「七はぎっ!大丈夫がばっ!?」
叫ぶ口に水が入り、先輩はむせてしまう。、
「大丈夫に決まってるじゃないですか!制服のまま飛び込んできて、何を考えてるんですか!」
「そんなの、七咲の事に決まってるだろ!」
「えっ……!!」
プールに響いた先輩の大きな強い声を聞いて、私の身体はしびれたように動かなくなった。二人とも、プールの中央に立ちつくす。
「七咲、そっちにいってもいいよな?」
優しい顔で、先輩が言う。
「……はい」
橘先輩は、ゆっくりと私に近づくと、そっと、私を抱きしめた。
「あ……」
濡れた先輩の髪が私の頬に触れて、制服越しでも先輩の体温を感じて、私の目からはもう一度、堰を切ったようにぼろぼろ涙が流れた。
「ああ……せん、ぱい……」
発した声は、殆ど音にならなくて。
「七咲……」
「橘先輩……私、もう」
ぐっと涙をのみこむ。
「もう、泳ぐのをやめたいです……」
もう泳がなくていい、そう言ってもらえると思ったけれど。私が言った瞬間、橘先輩は私の両肩を掴んで、引き剥がすように私の身体を離した。びっくりして、おびえた表情で先輩を見て、手を振りほどこうとした。だけれど先輩は私を逃がすまいとするかのように手を離さない。
「……うして」
そのまま俯いて、何か呟く橘先輩。
「……先輩?」
先輩は突然顔を上げて、私をまっすぐみて言った。
「どうしてそんなことを言うんだ!!七咲はこれまで頑張ってきたじゃないか!!一度の選考に落ちたからってなんだよ!七咲にとって水泳はそんなに簡単な事だったのか!?違うだろ!!」
初めて聞く、橘先輩の怒った声。初めて見る、怒った顔。私は混乱して、先輩の言葉に胸を貫かれたような気がして、目をそむけることすらできなかった。
「今、七咲が泳ぐことをやめたら」
私の両肩を掴む手にぐっと力を込めて。
「僕は七咲を、軽蔑する」
そう言って、先輩は私をもう一度抱き寄せて、強く強く、痛いくらいに抱きしめた。私はその腕の中で、締め付けられる両肩に大きな安心を感じて、静かに泣き続けた。
どれくらいそうしていただろう。私が落ち着きを取り戻して泣くのをやめ、やがて先輩はゆっくり、私を抱きしめていた腕を緩めた。私は力を抜いて、水面に身体を横たえる。橘先輩は立ったまま、私の肩を優しく支えて、息づかいが聞こえそうなくらい近くで、私を見つめていた。
「先輩……」
呟いた私の肩には、まだ先輩が強く締め付けた余韻が残っている。
「七咲、えっと……」
空いているほうの手で気まずそうに頬を掻く先輩。その顔には、いつもの優しさが戻っていた。
「すみませんでした……私、先輩に心配をかけてしまってたんですね」
「ううん、いいよ。ねぇ、七咲」
じっと見る橘先輩から、私は目を離せない。
「さっきはああ言ったけどさ、七咲は頑張りすぎだと思う。もっと、辛い時は休んでもいいんだよ。えっと、上手く言えないけど」
「……はい」
橘先輩は、しばし言葉に詰まって、うんうん唸っている。
「ええと……頑張りすぎるんじゃなくて、水泳を楽しんでほしいんだ」
「はい……先輩、ありがとうございました」
橘先輩の一言一言を大事に受け取って、自分でも驚くほど素直に、私はそう返事した。心の中に溜まった澱のような何かが、少しずつ流されていくような感覚。プールの水に対する恐怖も、いつの間にか消えている。
私は目を閉じて、ここまでの色々な事を思い返していた。橘先輩や塚原先輩に言ってしまったひどい言葉。自分から逃げ続けていた数週間。これから、一つずつ謝って、正していこう。そう素直に考えて、ゆっくり目をあける。間近にある先輩の顔は、プールの天井のライトがまるで後光のように輝いていて、私にはとても眩しく見えた。
「あの、私はもう大丈夫ですから、先に上がっていてもらえますか?それで」
一瞬言葉に詰まったけれど、私は勇気を出して言った。
「あの……一緒に……」
「うん、一緒に帰ろう。ロッカーで着替えて、それから校門のところで待ってるよ」
微笑む先輩。やっぱり、先輩が笑っている顔を見るのは、嬉しい。
「……はい」
私の返事を聞いて、先輩は水から上がると、脱衣所への扉を開け、出て行った。
部室の脱衣所で制服に着換え、鏡で顔を確認する。泣きじゃくった目は少し赤くなっていて、先輩に会うのがちょっと恥ずかしいと思った。部室の鍵を閉めて、職員室に残っていた顧問に鍵を預けて校門に向かうと、既に着替えを済ませたジャージ姿の橘先輩が待っていてくれた。
「橘先輩、お待たせしました」
「おう、お疲れ様」
なにも無かったかのように笑って私を迎えてくれる橘先輩。もうすっかり暗くなった通学路を、二人で並んで自宅へと帰った。私達は殆ど言葉を交わさずに歩いた。何か橘先輩とお話をしたかったけれど、プールでの事を思い出して胸がいっぱいになり、橘先輩への感謝の気持ちと、申し訳なさと、一緒に居られる事の嬉しさがまぜこぜになって、ついに私は一言も話すことができなかった。
橘先輩と別れる所まで来て、私たちは曲がり角の街頭の下で、どちらともなく足を止めた。
「あの、七咲」
「……はい」
橘先輩の発した声は少し緊張していて、つられて私も緊張してしまう。
「えっと、こんな時になんなんだけど」
心臓の鼓動が早まりはじめた。先輩は私をじっと見つめている。
「今度の日曜日って、予定は空いてるのか?」
「え……」
言われた私は一瞬、誘われたということが判らず、頭が真っ白になった
「よかったら、僕と遊びに行こうよ」
「遊びに……ですか!?」
ようやく先輩の言ったことが理解できて、嬉しさでちょっと声が弾む。
「うん」
恥ずかしそうに頷く橘先輩。
「先輩と……遊びに……」
反芻するように呟く私には、理解はできたけれどまだ実感がわいていなかった。
「だ、駄目かな」
さっきまであんなに力強く私を励ましてくれたのに、急に弱気になった先輩に私はちょっと笑ってしまう。
「なんだよ」
「いえ、私、今まで中学ではそんなふうに誘われた事が無くて……」
適当な答えではぐらかす私。
「うう、七咲、行くのか行かないのかを……」
緊張の極みに達しているのか、先輩は声が少し震えていた。そうか、先輩も緊張しているんだ。
「え、あっ、すみません。……行きます。私、先輩と遊びに行きたいです」
はっきりと答えた私は、少し赤くなっていたと思う。
「ほ、ほんとに!?じゃあ」
そういって先輩は鞄の中に手を突っ込み、がさがさと中身を探る。少しして、先輩は紙きれを二枚鞄の中から取り出した。
「これ、手に入れたんだ。よかったら七咲と行こうと思って」
差し出された紙は、水族館のチケットだった。
「はい、構いませんよ」
先輩の提案を快諾する。
「本当に?」
「はい、是非」
「おおっ!やった!!じゃあ、日曜の13時に、お昼を食べてから駅で待ち合わせでいいかな?」
無邪気に嬉しがる橘先輩。興奮した子供のように目が輝いている。
「はい、先輩こそ、寝坊して遅れたりしないでくださいね」
それは、橘先輩からデートに誘ってもらった事の照れ隠しだったけれど、すごく久しぶりに、橘先輩を信頼する自分の心から出た言葉のような気がして、私は清々しい気持ちだった。
「もちろんだよ!じゃあ、七咲、またな!」
「橘先輩!!」
鞄を持っていない方の手を挙げ、家に向かって歩き出そうとした先輩を私は呼びとめた。今言わないと、もうタイミングを逃してしまうような気がして。不思議そうにこちらを見る橘先輩。私は深呼吸をしてから、ゆっくり言った。
「先輩、今日は本当に、ありがとうございました。」
「いや、僕は何もしてないよ」
橘先輩の謙遜に、私は首を左右に振る。
「いいえ、そんなこと、ないと思います。先輩に沢山……元気をもらいました。先輩のおかげなんです」
照れたように笑う橘先輩。
「それで、あの……日曜、楽しみにしてます!」
橘先輩の目をまっすぐ見て言った。
「うん。僕も楽しみだよ」
「はい!それでは先輩、また」
そういって、私達は別れた。スキップしたくなるくらい踊る気持ちを抑えて、だらしなく笑ってしまいそうな顔を引き締めて、私は家へと向かった。
日曜日の昼、一時少し前。私は先輩と待ち合わせしていた駅に向かった。街は年末に向かって慌ただしさを帯びていて、駅前から街の中心に向かって伸びる通りにはクリスマスの装飾がきらきら光っている。私は前に見た夢を思い出して、駅が近くなるにつれて少し不安が募ってきた。
待ち合わせの場所に着くと、橘先輩はもう到着していて、私の不安は晴れた。橘先輩はジーンズに黒いジャケットを着て落ちついた印象。私はいつもの着古したダウンジャケットで、先輩はきっとそんなことを気にするはずはないけれど、あまり気を使っていない自分の格好にちょっと恥ずかしくなってしまった。
先輩は私を見かけると、嬉しそうに手を振った。
「先輩、こんにちは」
「おう」
どちらともなく、二人で水族館に向かう。何度か学校から一緒に下校しているが、私服で二人で並んで歩くと、一歩仲良くなったみたいで嬉しかった。歩きながら、いつもの他愛のない話。新しく出たゲームの話、期末テストの話、美也ちゃんの話。一つ一つの話で、やっぱり橘先輩は素直に楽しんでくれて、それが私もとてもうれしかった。
水族館のあるポートタワーへは、駅から街に向かう道とは逆へ、山を降りるバスに乗って行く。海に近づくに従って潮の香りが強くなっていき、建物の間から港に泊まる船が見え始める。ランドマークになっているタワーが段々大きく見えるようになって、駅から二十数分で、私達はポートタワーに到着した。
受付にチケットを渡して水族館の中に入る。最近新しくオープンしたばかりの水族館だった。内部は照明を暗めに、水槽の内部を明るくデザインしていて、天井がとても高く、魚を観察するには水槽を見上げるような格好になり、まるで海の底を散歩しているかのようだった。
「へぇー、面白い生き物を中心に展示してあるんだな!」
目をキラキラ輝かせている先輩。そういえば、美也ちゃんも楽しい時にはこんな風に目をキラキラさせてはしゃいでいたっけ。先輩たちの血筋なのかもしれない。
「先輩、あまり走り回ると転びますよ」
先輩にそういいながらも、私も水族館をとても楽しんでいた。
「ほら、先輩、これすごいですよ」
「おっ、どれどれ」
珊瑚礁を再現した水槽だった。カラフルな珊瑚に、さらに色とりどりの魚をくわえて、ちょっと目に痛い気もするけれど、とても明るくて元気な雰囲気の水槽になっていた。
「すごいな……」
見とれる先輩。私は水槽下部の説明書きに視線を落とす。
「えっと……この青いのがルリスズメダイ……これかな。それから黄色いのがチョウチョウウオ。ほら、これですよ先輩」
水槽の黄色い、丸い、薄い魚を指す私。
「すごいな、作りものみたいだ……」
しばし、鮮やかな黄色に目を奪われ、二人でじっと水槽を見つめる。
「ふふっ、本当にきれいですね」
「いつまで見てても飽きないな……」
そういう橘先輩は、本当に水槽に目線がくぎ付けになっていた。
「……先輩?」
呼びかけても橘先輩は反応がない。本当に見入っているようだ。周りの人がパントマイムだと勘違いするのではないかと思うほどに微動だにしない。まるで水槽と合わせて一つのオブジェになってしまったかのようだった。
「あの、橘先輩」
私の声も耳に入っていないようだ。
「先輩、ちょっとヨダレ出てますよ!」
先輩の腕を引いて言うと、先輩ははっとしたようにこちらを見て、口元をぬぐう。
「ご、ごめんちょっと水槽に見入ってて……」
「ふふ、冗談です」
「へ?」
不思議そうな顔で見る先輩。
「ヨダレは垂れてません」
「うっ……意地悪だなぁ、七咲……」
「はいっ」
にっこり笑って返事をした。
「どうします?先輩が気に入ったのなら、もう少しここに居ても……」
「いや、そろそろ次の水槽にいってみよう。もう穴があくほど見たしね」
橘先輩はそういい、私達は二人で笑った。
私達は熱帯を中心にした展示場から、寒帯を中心とする展示場へ移動する。ひときわ大きな水槽はペンギンが展示されていた。三メートルほどの高さに水面があり、水面近くをペンギンが気持ちよさそうに泳いでいる。
「ほら、先輩ペンギンですよ!かわいいですね!」
「ほんとだ、なんだか飛んでるみたいだな」
水槽の手すりに捕まって、二人で空を仰ぐように水槽を見る。
「こうして手をバタつかせていると、ペンギンは鳥なんだなって実感しますね。本当は空を飛びたいのかな……」
「鳥、か……」
感慨深そうにペンギンを見つめる先輩。
「少し、羨ましいですね……これだけ水の中を自由に泳げたら、気持ちいいんだろうな……」
ふと私の口から出た言葉に、先輩はこちらを見た。
「そういえば、七咲はどうして水泳を始めたんだ?」
「どうして……ですか」
先輩に聞かれて、私は小さいころの事を思い出す。
「私……小さい頃は、身体が弱くて、よく風邪を引いてたんです。でも、お医者さんに水泳を勧められて、水泳を始めてからはずいぶんよくなったんです。だから、私が水泳を始めたのは、身体を鍛えるため……ということになりますね」
そう、そこが私の水泳との出会いだった。他の運動に比べて身体にかかる負荷も小さく、全身運動になる水泳は、子供の頃の私や高齢者のような者には適したスポーツだ。そういえば、最初は水が怖くて、泣きながら親に手を引かれてスイミングスクールに通ったっけ。
「それからは、だんだんスイミングスクールにいくことが好きになりました」
「それはどうして?」
興味深そうに聞く橘先輩。私の小さいころの記憶が徐々に鮮明になってきた。
「はい、スイミングスクールの入り口に、マスコットキャラの巨大なペンギンの人形があって、それに会いに。ふふっ、単純だったんですね、私」
「へぇ、なんだか可愛いな」
微笑む橘先輩。
私は、更に記憶を辿る。理由はそうだったけれど、でも中学や高校になっても水泳を続けたのはそれだけが理由ではなかったはずだった。
「それから……そう、だんだん上手に泳げるのが、タイムが伸びるのが楽しくなって、水の中にいること自体が楽しくて……」
そうだ、私は、だから泳ぐことを続けていたんだ。楽しいから、それだけでよかった。友達もたくさんできて、身体も丈夫になって、私という人間を豊かにしてくれる水泳を、私は好きになったんだ。
でも、最近の私は自分から水泳を遠ざけた。自分の身体がうまく動かない事に苛立って、水泳でつながった大事な人達をないがしろにした。最後には、水泳自体を怖がって、結果的には自分そのものから逃げていた。
「そうだ、私……」
「七咲?」
優しく笑顔で聞く先輩。ひょっとしたら、先輩は私にこのことを考えさせるためにここに誘ってくれたのだろうか?私の心の中で、ずっとつかえていた何かが、少しずつ溶けていくような気がした。こんなに簡単な事だったのに、どうして気付かなかったんだろう。馬鹿な自分にちょっとやきもきすると同時に、私は解放感を感じ始める。
「橘先輩、私、思い出しました。私、楽しいから泳いでたんです」
「……そっか、よかったな」
「はいっ!」
私は晴れやかに気持ちで、先輩に応えた。
それから、私達は時間をかけてじっくり水族館を楽しんで、ポートタワーを後にした。辺りはすっかり暗くなっていて、バスの帰り道は窓の向こうを通り過ぎる街灯をぼうっと見つめていた。先輩が何を考えているのかは判らなかったけれど、私はこれからの事を考えていた。
今私の右隣に居る橘先輩。初めは妙な出会いだったけれど、いつしかこの明るく、ちょっと変態で、でも優しい先輩に私は恋をした。その気持ちが少しずつ大きくなっていき、先日のプールで気持ちが一杯になって、今はもう身体から溢れそうなくらい、育ち続けている。
私はこの自分の気持ちを、どうにかしたい。橘先輩は私が何度も見たように、一見変態に見えて、いや変態であることには変わりないとしても、とても素直で、素敵な人だ。私の他にも、私と同じように橘先輩に気持ちを抱えている人は居るかもしれないし、橘先輩も私が橘先輩に抱くように、誰かに気持ちを抱いているのかもしれない。私の気持ちは、橘先輩に受け取ってもらえないかもしれない。
でも、私は怖がらずに、自分の気持ちを橘先輩に贈ろうと思った。断られてしまってもいい、それでもまっすぐに、怖がらずに隠さずに、私らしく気持ちを伝えよう。街の光を見つめながら、そう私は決意をした。
駅前のファミリーレストランでお喋りしながら夕食をとって、私達は自宅への道を歩く。20時を回った住宅街はしんと静まりかえっており、どこかの家のテレビの音や、子供のはしゃぐ声が遠くから聞こえていた。
「七咲、実はさ」
歩きながら、橘先輩が言う。
「はい?」
「今日の水族館のチケット、貰いものなんだ。……塚原先輩からの」
「えっ……」
思わず、私は足を止める。先輩は私の方に向き直って続けた。
「実は、相談されてたんだ。七咲がスランプみたいだけれど、何か思い当たることはないか、って。でも、僕にも七咲のスランプの原因は判らなかったし、その時は何も答えられなかったんだけど」
「そう、だったんですか」
何も言わない、と言って私から離れていた塚原先輩。部活以外の時間も心配をしてもらって、迷惑をかけていたことに私は申し訳なくて、涙が出そうだった。
「『あなたは七咲と仲が良いみたいだから、気分転換に誘ってあげてくれ』って言われて、このチケットを渡されたんだ。でも、ちょうどよかった」
「ちょうどよかった、ですか?」
私は首を傾げて聞き返す。
「うん。僕も七咲と遊びに行きたいなって思ってたところだったし。今日は本当に楽しかったよ」
そう言われて、私は嬉しさでいっぱいになり、思わず笑みがこぼれた。
「ふふっ、私も楽しかったです。今日はありがとうございました」
「うん、それじゃあ」
「あ、橘先輩」
帰ろうとする先輩を呼びとめる。私は、高鳴る胸を抑えて、少し深呼吸。
「あの、もしよかったら」
「うん?」
「イヴの日、予定は空いていますか?」
私の質問に、橘先輩の頬が少し紅くなった。
「えっ、イヴの日……」
「もしかして、もう予定が入っていますか?」
先輩はちょっとまじめな、迷ったような顔をする。断られたら諦めようとは思っていたものの、胸が締め付けられるように苦しかった。
「うーん、どうしようかなぁ……」
「……」
一瞬の沈黙のあと、橘先輩は笑った。
「ははっ、冗談だよ、大丈夫。一緒に遊ぼう」
「ほんとですか!?もう、意地悪しないでください、先輩」
怒ったように言ったつもりだったけれど、私の声は嬉しさを隠せなかったと思う。
「うん。どこにいこうか?」
そう言われて、私は橘先輩を誘う事が目的だったので、まだ何も決めていない事を思い出した。
「行き先は……すみませんが、秘密、ということでよいですか?」
「ううん、どこだろう、気になる」
「ふふっ、喜んでもらえるといいのですが」
そう言いながらまだ決めていないのだけれど、先輩の反応は可愛らしくて、面白かった。
「七咲とならどこだって大丈夫だよ。あとで、待ち合わせ場所と時間を教えてよ」
「はい、分かりました」
「じゃあ、もう時間も遅いし、そろそろ」
「呼びとめてすいません。先輩、イヴの日、楽しみにしています」
そうして、私達は挨拶を交わし、それぞれの家へと向かった。
一人になって、家までの道を歩く。水泳がスランプだったころは憂鬱だった道が、今ではとても輝いて見えた。響く私の靴音も、気のせいかいつもよりちょっと高い気がする。早くイヴが来ないかなと思いながら、私は帰宅した。
イヴの前日。私は夜少し早めにベッドに入ったものの、なかなか寝付けなかった。昼間のうちに、橘先輩には場所と時間を伝えた。私が伝えた場所に、橘先輩は意外そうな顔をしていたけれど、私は自分の気持ちを橘先輩に伝えるための場所として、その場所を選んだ。
橘先輩には迷いなく決めたように見せたが、実際には色々な事を考えた。海辺や公園でゆっくりしようか、それとも繁華街でケーキを食べながら、もしくはおじさんが所有している温泉でバスタオル一枚で迫ったらどうだろう。ぐるぐる何周も思考を行ったり来たりさせた結果、私は結局、変哲もない場所を選んだ。
「先輩、なんて思うかなぁ」
橘先輩とイヴを過ごすと考えただけで、こんなに胸が高鳴るなんて。
ふふっ、先輩、明日が待ち遠しいです。
私は、枕元の多機能時計を橘先輩に見立ててその頭を撫でると、目を閉じた。
翌日、私が橘先輩とのクリスマスデートに選んだ場所は結局、学校の校舎だった。クリスマスイヴの輝日東高校は、創設祭と称して生徒会とクリスマス委員主催のパーティーが催される。当日は一般の人にも解放し、地元商店街とも連携して学校内は結構なにぎわいを見せる。
生徒たちは原則、創設祭に参加する事になってはいるが、それでもクリスマスイヴという特別な日には先生たちの監視も甘く、校内の仲の良いカップルがそろって欠席することもある、と水泳部の恋多き先輩が話していた。
創設祭は午後と夜間に行われ、私は午後の部、水泳部の出店のおでん屋台を手伝うことになっていた。OBOGの先輩方や、引退した三年生、美也ちゃんや中多さんも来てくれて、朝からばたばたとした時間を過ごした。おでんの売れ行きは好調で、三時頃にはもう追加で買いだしに行かなくては間に合わないくらいだった。
夕方五時を周り、約束の時間が近づく。私が交代を済ませて待ち合わせ場所に行こうとしていると、橘先輩が屋台に訪れていた。
「先輩、来てくれたんですか?」
嬉しさと、他の部員の前という恥ずかしさが同居する。
「うん、七咲のエプロン姿を見ようと思って……って、あれ」
「残念でした、さっき着替えたところです。惜しかったですね、先輩」
そう言うと、橘先輩は本当に悔しそうな顔をした。
それから私達はごく普通に、創設祭を見て回った。文科系部活の展示、ステージイベント、屋台……8時を回った頃、創設祭はフィナーレに向けて、一層の盛り上がりを見せる。
「さてと、だいたい一通り見たよね。メインステージに行こうか?」
そう言う橘先輩の袖を掴んで、ちょっと引っ張る。
「それもいいんですが、先輩、ちょっと来てほしいところがあるんです。いいですか?」
「うん、どこ?」
不思議そうにする先輩。
「こっちです」
橘先輩の袖を引いて、私は喧騒の外側へ。関係者以外立ち入り禁止のロープをこっそり超えて、校舎の裏側へ連れて行く。
「ここって……」
橘先輩を連れてきたのは、私が橘先輩と初めて遭遇した、あの場所だった。無骨な非常階段、照明もなく薄暗い部室近くの校舎裏。お世辞にもクリスマスイヴのムードとは程遠い場所。橘先輩はきょろきょろとあたりを見回している。私はそんな橘先輩の前に立って、先輩を見つめた。先輩はそんな私に気付いて、辺りを見るのをやめ、私の方を向いた。
「先輩、私、聞いてもらいたい事があるんです」
声を出すのと同時に、心臓が強く鼓動し始める。
「聞いてもらいたいこと……?」
先輩も心なしか、声が緊張しているように思えた。
「はい。……私の、気持ち、です」
ここまで言ったら、もう最後まで言わなくてはいけない。私は後戻りできなくなった怖さと、恥ずかしさと緊張で、頭がくらくらするような気がした。
「七咲の……」
「いい……ですか?」
橘先輩が小さく頷いたのを確認して、私は続けようとして……口が動かない。数秒の沈黙。
「どうしたの?」
しびれを切らせたように、橘先輩が訊く。でもその視線も、どこを見ていいのかわからないかのように泳いでいる。
「困り……ました。いざ言うとなると、一言でいいはずなのに、なんて言ったらいいかわからなくて……伝えたいことは一杯あって、でも言葉にならなくて、どうしていいのか、その」
「うん……うん」
橘先輩の方を見なくちゃと思って、でもまっすぐ見つめることができなくて、私の視線も行ったり来たり。顔は、きっと真っ赤になっている。
「先輩、笑わないでくださいね……」
「大丈夫、全部聞くから」
先輩の優しい言葉に、私は少しだけ胸が軽くなった気がした。
「では、えっと……」
大きく深呼吸。覚悟を決めた。私は、心の中で一歩踏み出した。
「私、橘先輩の事が、好きです」
「うん」
先輩は、私の目を見て、真正面から私の言葉を受け止めてくれた。
「気持ちを抑えようとしても、もう駄目なんです。隠そうとしても隠せなくて、気持ちがどんどん大きくなっていって、身体から溢れてくるんです」
一気にまくしたてるように私は言って、そこから言葉が続かなくなり、足元に視線を落とす。視界には橘先輩の制服のズボンと革靴。そういえば、これが最初に見た橘先輩の姿だっけ。
何か言わなくちゃ、冷静にならなきゃと思っても、どんなに違うことを考えようとしても、すぐに思考は橘先輩の所に引き戻されて、何も言葉が出てこない。次第に、頭が混乱し始めたとき。
「七咲」
橘先輩に名前を呼ばれて、私はびくりと顔をあげる。先輩は優しく微笑んでいた。
「……僕も、七咲の事が好きだ。」
「えっ」
思わず、私の口から声が漏れる
「えっと……嬉しいよ、七咲が僕の事をそんなに想っていてくれてたなんて」
恥ずかしそうに、先輩は頬を掻いた。
「ほ、本当ですか!?」
「うん」
橘先輩には他に好きな人が居るかもしれないと思っていた。私なんて、橘先輩の沢山いる人間関係のうちの一人にすぎないと思っていたのに。イヴの約束を受けてくれて、ちょっとの期待はあったけれど、それでも橘先輩がきちんと私の方を見て言ってくれた現実の言葉に、私はまだ戸惑っていた。
「じゃあ、もう一度お願いします!」
もう一度、今の言葉が聴きたくて。ちゃんと準備をして、心に刻みつけておきたくて。
「七咲、好きだ」
先輩の言葉を聞いた次の瞬間、私は橘先輩の胸に飛び込んでいた。橘先輩の胸に額を、頬を押しつけて、自分の想いを身体に乗せて。橘先輩はそんな私を優しく抱きしめてくれた。その時、校庭の方から大きな歓声が上がった。創設祭ももうフィナーレを迎えているらしい。
「七咲」
私が顔を挙げると、橘先輩が私を見ていて、なんとなく橘先輩の気持ちが分かった気がして、私はゆっくり目を閉じた。心臓が大きく鼓動している。怖い。意識が耳と、橘先輩の手が私の身体に触れている辺りに集中する。先輩の手にちょっと力が入って、それから呼吸の音がだんだん近くなって、そのすぐあとに、私の唇に、先輩の唇が重なったのがわかった。
「んっ」
思わず声が漏れて、ぎゅっと身体が硬くなる。自分の心臓の音が体中を駆け廻り、緊張の中で、私はこの感覚を知っているような気がしていた。そういえば、初めてプールに入った時も、とても怖くて、身体が硬くなって。でも、水泳の先生に力を抜けと言われて、力を抜いたら自然にぷかぷか浮かんで、空を飛んでいるみたいでとても心地よくて……そうだ、水はこちらが怖がらなければ怖くない。力を抜いて、身体は浮くようにできてるから大丈夫。
ゆっくり身体の力を抜くと、橘先輩の唇の感触が伝わってきた。しっとりして、優しくて、甘やかで、橘先輩の気持ちが流れてくるようで……私はそっと、両手を橘先輩の背中にまわして、きゅっと力を込めた。今感じている幸せを離さないように、でも力を入れ過ぎて壊してしまわないように、優しく、大事に先輩を抱きしめる。橘先輩の手も私に応えるようにちょっとだけ力が入った。
しばらくのあと、橘先輩はゆっくり唇を離した。けれど私は餌をもっと欲しがる雛鳥のように、嘴を前へ。今度は自分から、先輩にキスをした。びく、と先輩の肩が跳ねて、それからもう一度、優しく私を包んでくれた。蕩けてしまいそうなくらいの幸せに包まれて、ずっとこうしていたいと思っていると、足元でにぁ、と猫の声がして、私は片目をあける。いつも校舎の裏側で出会う黒猫が、構って欲しそうに私の足に頬を寄せていた。
そうか、お前が私達を逢わせてくれたんだもんね。私は心の中でありがとう、と呟いて、構ってやれなくてごめんねと思いながら、また目を閉じた。黒猫はやがて構ってもらうことを諦めたのか、どこかに走り去って行った。
2人の他には誰も居ない、クリスマスイヴの校舎裏。今ではとても大事な人になった橘先輩との出会いの場所で、私は今後、一生忘れないであろう大事な瞬間を迎えた。
あの日から、私と橘先輩は恋人同士になった。最初はお互いの関係の変化にぎこちなかったけれど、今では私の右隣には橘先輩が居て、私の右隣に橘先輩が居ること、ただそれだけで私にとって幸せと安心につながった。これからは、私はこの幸せを失うことのないよう、大事なことを忘れてしまうことのないよう、努力を続けていかなければならない。
だけど、その努力は辛くはない。それは橘先輩と二人で、私の大事な人達と皆で続ける努力だから。
パン、とスタートの合図の銃声が響き、私は飛び込み台を蹴って弾丸のように水の中へ。足の爪先から手の先まで意識を巡らせて、その意識を更に先へと延ばしていく。遙か先のゴールへ、そこからもっと先の大事な人達へ。迷うことをやめた私は、また水泳を楽しむことができるようになった。橘先輩をはじめとして、私の大事な沢山の人達に感謝して、私は泳ぎ続ける。私はもっともっと、速く泳げるようになる。
誰よりも早くゴールし、プールから上がった私は、観客席にいる大事な人達に、とびきりの笑顔で手を振った。橘先輩も、こっちを見て笑っている。
橘先輩、これからも私を見ていてください。
ふふっ、私も、みんな見てますよ。
(おわり)