2010/07/26

勝手に小説化 FF5 vol.9

Filed under: 勝手に小説化FF5,連載 — ksk @ 10:42 PM

 

 四人は信じられない光景に目を疑った。誰も口を開くことができずに、数秒後レナが力を失ったようにその場に座り込んでしまった。クリスタルルームの中心、台座にその主の姿はなく、代わりに部屋中に、砕け、四散したクリスタルの欠片が散らばり、弱々しく光っていた。

 自然の力の源であるクリスタル。そのうち風を司るクリスタルが失われたということは、もはや世界に風が吹かないことを意味していた。船が海原を駆けることも、渡り鳥が海を越えることも、宵の街に夕食の香りが漂うことも、もうない。

「世界が……お父様……」

 レナが力なくつぶやいた。バッツはその肩に手を置いて、じっと状況を見定めようとした。先ほどの怪鳥が砕いたのだろうか。風の源は、伝説のクリスタルはこんなにも脆い存在だったのだろうか?そもそも、あの怪鳥はどこから現れたのか?タイクーンの王はどこにいったのか?先ほど自分を助けた謎の声は?バッツはぶんぶんと頭を振った。判らないことが多すぎる。一度に解決しようとしてはいけないと、バッツは思った。

 ファリスは散らばったクリスタルの欠片を眺めながら、台座の周りを歩き始めた。欠片の断面がきらきら輝き、ファリスの姿を映した。ファリスはそのうちのひとつを手に取ろうとし、欠片に触れた。

 瞬間、ファリスの脳裏にイメージが流れ込んできた。空、そしてどこかの国、赤い光を帯びたクリスタル――ファリスは思わず声を挙げ、手を引いた。

「どうした!?」

 ガラフがファリスに歩み寄ろうとした瞬間、部屋中のクリスタルの欠片が輝きだした。

「これは……」

 レナが困惑した表情でつぶやいたとき、今度は四人の脳裏に同時にイメージが流れ込んできた。

 

四人は空を飛んでいた。眼下の景色は風の神殿から海、森、砂漠と移り変わり、やがて城と街が見えた。四人はその城に飛び込むように落ち、そこで炎のように力強い、真っ赤に光るクリスタルを見た。赤いクリスタルから四人は勇気を受け取った。そのまま、四人はまたも宙を舞い、水に囲まれた天高くそびえたつ塔へと飛んだ。豊かな水を湛えた青く光るクリスタルから、いたわりの心を託された。次に飛んだのは遠い遠い昔に忘れ去られたらしい廃墟だった。いくつもの土と鉄との層を潜り抜け、見たことのない遺跡のような景色をめぐり、辿りついた先には黄金色に輝くクリスタルがあった。クリスタルは四人に希望を託した。最後に四人は風の神殿に戻ってきた。散ったクリスタルたちが一斉に、より強く輝き、バッツ達に探求せよと語りかけてきた。やがて、バッツ達の身体はそのまま地面に降り、四人は我に返った。まるで夢を見ていたような気分だったが、しかし四人は確かめずともお互いが同じ経験をしたことを実感していた。

「今のは……なんだったんだ?クリスタルが……」

バッツが呟いた。今の体験を、うまく言葉で説明することができなかった。

「クリスタルの……心?」

レナが呟いた。それはなんとも曖昧な表現ではあったが、しかしその言葉が一番しっくりくるように感じられた。四人は確かにクリスタルの持っていた思念のようなものに触れたし、それは四人の内に強い何かを残していた。

「なにやら、あったかいのう……」

ガラフが穏やかな顔で言った、その時だった。レナが突然、クリスタルの台座の方に向き直った。つられて、他の3人もそちらを見る。ファリスがあっと高い声を挙げた。先ほどまで誰も居なかった台座の上には、青いローブを着た男性が立っていた……立っていたというのは少し正確ではなく、男性の両の足は、ほんの少し地面から離れていた。バッツは思わず剣の柄に手を添えたが、しかし男性からは邪気が感じられず、バッツはそのまま身体の力を緩めた。

「お父様……!」

「父さん……レナの……?」

 レナの反応に、ファリスがレナと男性を交互に見比べた。レナは戸惑っているようだった。それもそのはずで、人間であるレナの父、タイクーン王であるなら、多少の魔法の心得があるとはいえ地に足をつけずに立つなどということはできるはずがないのだ。しかしそれでも、レナは探し求めていた父の姿を目にして、涙があふれてきていた。タイクーン王はレナに一度、優しい笑みを向けると、それからすぐに顔を引き締め4人に向き直った。

「よく聞くのだ。お前たちはクリスタルに選ばれし4人の戦士。……4つの心が宿るもの。勇気、慈愛、希望、探求……」

「どういうことですか、お父様!」

 レナがタイクーン王の言葉を遮って言ったが、タイクーン王は構わずに続けた。その顔には、若干の焦りが見られた。

「風のクリスタルは砕け散ってしまった。そして、他の3つのクリスタルも砕け散ろうとしている……お前たちは、クリスタルを護らねばならない。邪悪な者がよみがえろうとしている……全てを闇に変えるものが……」

 そこまで言った時、王の周りに突如、黒い霧のようなものが立ち込めた。同時に、先ほど怪鳥が現れた時のような嫌な感覚が4人を襲った。バッツは、今度はためらいなく剣を抜いた。

 黒い霧は、王を閉じ込めるように丸く包み込んだ。王は焦燥の表情を見せ、抵抗したが、球体は王を呑みこんだままふわりと浮きあがった。

「お父様!!」

レナが叫ぶ。

「行け!4人の戦士たちよ!クリスタルを護るのだ!」

 王がそこまで叫んだ時、球体は驚くべき速さで飛びだした。バッツ達が動き出す間もなく、球体はまるでそこに壁などなかったかのように、神殿の外壁を通り抜け、王を連れ去った。同時に、その場を支配していた瘴気が消えた。レナが再度叫んだが、その声は王の消えた壁に跳ね返り、ただ残響を残すだけだった。

 4人はしばらくの間、ただ立っていることしかできなかった。クリスタルの喪失、タイクーン王の残した言葉、一つ一つの事を反芻する時間が必要だった。

 ガラフは王の言葉を受けて、頭に鈍い痛みを感じていた。ガラフには、タイクーン王が言っていることを自分は既に知っていたような、奇妙な実感があった。もし自分が記憶を失う前にそのことを知っていたのだとしたら、自分が風の神殿を、そこにあったはずのクリスタルを求めていた事に説明がつく。しかし、なぜ自分がそのことを知っていたのかという事を思いだそうとすると、再び頭が刺すように痛みだした。結局、自分の正体が何であるかは判らないままだった。

 ガラフがこの場で自分の正体を思いだす事をあきらめた時、周りに散らばったクリスタルの欠片が再び、光りだした。4人がその状況に戸惑っていると、クリスタルの欠片はふわりと空中に浮かびあがり、お互いがお互いの光を受けて七色に輝きだした。

「クリスタルの欠片が……」

 ファリスが口を開きかけた時、クリスタルの欠片たちはいっそう強く輝き、次の瞬間には閃光となって、4人の身体に飛び込んだ。4人の心は再び風の神殿を離れ、イメージの世界へと跳んだ。4人の心は今度は空ではなく、時間と、人の心を駆けた。クリスタルに宿る古の勇者たちの心。歴戦の戦士の、高名な魔術師の、研究に己を費やした博士の……そこには幾千もの戦いがあり、勝利があり、出会いがあり、喜びがあった。敗北、別れ、悲しみを見た。恋をし、愛しあい、子を成し、あるいは別れ……最後に勇者たちは永き眠りについた。いずれも、己を高め、他の為に己が人生を投じた誇り高き戦士たちだった。

 バッツはイメージの世界で、先ほど怪鳥の戦いの際にバッツの身体に入り込んだ戦士と出会った。戦士はバッツに頬笑み駆けると、世界を、孫たちをよろしく、と言った。バッツが頷くと、戦士は光となってバッツの中に飛び込んできた。

 気がつくと、4人はまたクリスタルルームに還っていた。さきほどまで部屋に散らばっていたはずのクリスタルの欠片が、一つも残っていなかった。

「俺たちが……護る?クリスタルを……」

 バッツが反芻するように呟いた。誰も返事をできなかった。

「さっきの……他の3つのクリスタルの場所……?私、見たことがあるわ、あの青いクリスタル、あれはウォルスの……確か、水のクリスタル、お父様に連れて行ってもらった……」

 レナが言った。レナも混乱しているようで、言葉がうまく続かない。

「むう、しかし」

 声を発したガラフは、辛そうに頭を抱えていた。

「わしは、そうするために、ここに来たような気がする……わからんのじゃが、そうしなければいけない……」

 3人はガラフを見た。

「さっきレナの父君が言っておられた言葉……わしはここに来る前、クリスタルが危ないということを知っていたような気がしてならんのじゃ。それも、風のクリスタルだけではない……他の3つ、全てのクリスタルが……」

 そこまで言って、ガラフは表情をゆがめた。頭が痛むのか、ガラフはそのまま黙ってしまった。

「でも、なんでだ?どうして俺たちが?俺たちはさっき見たみたいに、ご立派な人間じゃあない。勇者だって?そんなのは、もっと歴戦の戦士とか、そういうお方にふさわしい称号じゃないのかい?」

 ファリスは混乱したようにそうまくしたてた。しばし、沈黙が流れた。

「俺は……行ってみようと思う。ウォルスへ……」

 バッツが口を開いた。

「確かに、俺は勇者なんかじゃない……でも今、クリスタルは俺たちに伝えて散ったんだ。俺たちが動かなきゃ、多分、誰も動けない。クリスタルが壊れるなんて、信じられるのは目の前で割れたクリスタルを見た俺達だけだ。それに……助けてもらった恩がある」

「恩?」

 レナが聞いたが、バッツはそれに返事はしなかった。怪鳥との戦いのときに力を貸してくれた勇者とかわした言葉と気持ちを、バッツは上手く伝えられそうになかったのだ。結果としてバッツは、彼の頼みを聞こうと思った、そのことだけでいいと思った。

「私も……行きます。」

少しして、レナが続けた。ガラフも強く頷いている。

「満場一致か、やれやれ。じゃあ行くよ、俺も。」

 ファリスが頭を掻きながら言った。

「ウォルスに行くとなると、水門を越えて南だな……肝心の門はどうする?王女様」

「門の管理人を知っています。トゥールに行きましょう」

レナがファリスに答えた。オーケー、とファリスは答え、4人は神殿を出てトゥールに向かった。

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2010/06/24

タニカミさん8

Filed under: タニカミさん,連載 — ksk @ 12:10 AM

そういえば最近、久しぶりにタニカミさんに会った。
タニカミさんの髪は少し伸びてた。
でも、この前会った時から一度は切ったらしい。

タニカミさんは相変わらずの調子だったけれど、
意外にもiPodで音楽を聞いていた。
パソコンの事はよくわからないので、知人に音楽を入れてもらったらしいが、
新しい音楽を追加できないので、ずっと同じ曲ばかり聞いてるらしい。
でも、ケースやイヤホンにはこだわっているみたいだった。

最近はまた暑くなってきたから、いつ部屋に風鈴を下げるか迷っているらしい。

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2010/06/02

勝手に小説化 FF5 vol.8

Filed under: 勝手に小説化FF5,連載 — ksk @ 11:48 PM

風の神殿は、本来的に聖域であった。クリスタルの加護を受けた地は、そのクリスタルが司る自然の恵みを豊かに有し、穏やかで実り多い土地となる。風のクリスタルの安置された風の神殿と周辺は穏やかで芳醇な風に満ち、クリスタルの加護のもと集まる聖なる存在に守られた、生き物の憩いの土地となる。クリスタルの光に導かれたという伝説の妖精シルフの加護を受け、あたりには美しい草木が歌い、空は一年中荒れることを知らない。春には花が舞い、夏には草木が茂り、秋には虫が歌い、冬には次の春への静かな休眠をとる。魔の存在が一切近づくことのない安全な場所であった。

しかし、現在の神殿の姿は、そのような美しい景色とは真逆だった。辺りは薄い瘴気が立ち込め、草木と花々は荒らされ、神殿の扉は何者かによって砕かれている。バッツたち三人と、船を部下の海賊たちに任せてきたファリスは、神殿の前まで辿りついていた。

「ここがその『神殿』なのか?とてもそうは見えんの」

 ガラフが辺りを見て言った。

「ひどい……本当は美しい神殿なのです。誰がこんなことを……」

 レナが悲痛な表情で答えた。

「俺も何度か近くまで来たことはあるが、確かにこりゃひどいな。めちゃめちゃだ」

 ファリスが言った。バッツは神殿の崩れた扉を見つめていた。神殿の扉は人二人分の高さに加え、相当な厚みがある。石造りの扉は、壊れ方から見て自然に崩れたとは考えにくかった。おそらく、何か外側から力をかけて砕いたと見るべきだろう。しかし、この巨大な扉を砕く力とは何か?人間では、たとえ熟練の戦士であっても不可能な所業である。バッツは長く各地を旅してきたが、このように巨大な扉を壊せる存在を、人間と魔物両方含めても出会ったことはなかった。

 バッツの心は揺れていた。おそらくこの扉を砕いた存在はこの神殿の中に居る。危険な存在であろう。しかし、自分の心はレナやガラフと同様、この神殿を求めていた。内部に命を落とす危険があるにも関わらず、である。父ドルガンは自分に危険を避ける術を教えた。だが、バッツはまるで父に神殿の中に入れと言われているような気がしていた。自分の中の矛盾する感情に少しの間バッツは悩み、そして決断した。

「レナ、急いだほうがいい。親父さんが上に居るんだろ?」

 バッツが言うと、レナは唇をきゅっと結んで頷いた。四人は覚悟を決めると、魔物の臭いが立ち込める神殿内に飛び込んだ。

 

 神殿内部は、ゴブリンたちをはじめとするモンスターの巣窟となっていた。バッツが先頭を、ガラフが最後尾を務め、ファリスがレナを護る形を取り、4人は強引に神殿内部を上階へと駆け上がって行った。バッツは当初、3人を護りながら進む事に不安を感じていたが、それは杞憂に終わった。ファリスは海賊の首領に恥じぬ度胸で力強くレナを護ってくれ、ガラフは徒手で十分にゴブリンを撃退するほどの腕をもっていた。ガラフは途中でゴブリンの持っていた石造りの剣を奪うと、それをバッツも驚くほど巧みに使いこなしてみせ「わしの正体は剣聖かもしれんの」と冗談を言っていた。

 順調に階上へ歩を進めた一行だったが、クリスタルルームまであと階段ひとつ、というところで先頭を行くバッツの脚が止まった。バッツは他のメンバーがバッツを追い越して先行せぬよう手で制そうとしたが、それをするまでもなく、全員が異常事態を肌で感じていた。

 階段を前にして、明らかに瘴気が濃くなったのである。バッツをして、ここまでの禍々しい空気に触れた事はなかった。他の三人もそれぞれに何らかの違和感を感じているようだった。

「なんだか、寒い……」

 レナが身震いするように言った。魔術の心得のあるレナは、他の三人よりも瘴気の影響を強く受けていた。ファリスが無言で自分の上着を着せようとしたが、レナは首を振って、寒気の原因が自分の体調ではないことをファリスに伝えた。

「……どうする?」

 ガラフが訊いた。ここまでバッツを驚かせるほどの戦いを見せたガラフも、表情が硬く強張っていた。

「レナ、他に道は?」

 バッツはレナに訊いた。レナは少し考えたが、やがて首を振った。悲痛な表情だった。この先には明らかな危険があるが、目的はそのさらに先にある。

「判った。俺が先に行って見てくる。」

 バッツはそう言うと、階段の上に目を向けた。

「でも……」

レナの不安そうな声を遮り、バッツは続けた。

「大丈夫。少し見てくるだけだ。すぐに戻る。大丈夫そうなら、皆を呼ぶ。」

 バッツはそういって、慎重に階段をのぼりはじめた。一歩一歩が重たかった。心の一部が命の危険を感じて、バッツに戻れと無意識の指示を送っている。バッツはそれを抑え込み、自分を奮い立たせて階段を上った。

 階段を上りきったバッツの前には、巨大な扉があった。この先がクリスタルルームなのだろう。バッツは壁に沿うように立ち、辺りを注意深く観察した。しんと静まり返り、耳が痛いほどだった。気味の悪い瘴気は消えていない。瘴気のもとはクリスタルルームの中だろうか。バッツがそう考えながら、視線を上に向けた時だった。

 ぐにゃり。とバッツの視界がゆがんだ。バッツはこれまでにない危険を感じ、全力で横に跳んだ。直後、さっきまでバッツの立っていた位置に巨大な何者かが降り落ち、地面を抉った。

 落ちてきたのは巨大な怪鳥だった。バッツはそれを見て、すぐにこの魔物こそが瘴気の原因だと判った。怪鳥から放たれる禍々しい瘴気が、周囲の空気すらゆがめていた。先ほどバッツの視界がゆがんだのはこの瘴気の為だった。怪鳥は仕留め損ねた獲物の方にゆっくりと向き直り、ギロリとバッツをにらんだ。そして、「ゲェェェェエエエエッ!!!」と耳が割れるほどの奇声を放ち、バッツを威嚇した。バッツの脳裏に、神殿の入り口で見た破壊された扉の映像がよぎった。

「皆!来るな!逃げろ!!」

 バッツは階下に向かって思い切り叫んだ。どう考えても生身の人間四人の敵う相手ではなかった。いや、たとえ鋼鉄の鎧に身を包んだとしても、こいつはそれを簡単に砕いてしまうだろう。正当に渡り合うためには、戦争に使うような兵器、たとえば船に積むような大砲でもなくてはまともに戦う事などできはしまい。

 バッツはしかし、それでも腰の剣を抜いた。怪鳥は決して自分を逃がしたりはしないだろう。ならば、せめて他の三人だけでも逃がさなくてはならない。少しでもその時間を稼ぐことが今の自分の、そして恐らく最後の使命となる。バッツはそう考えた。窮地においても利己的にならず、状況を判断し最善の判断を下す。そう教えたのも父だった。

 しかし、バッツの思惑にも関わらず、バッツが逃がしたかった三人はバッツの声を聴き、逆に階段を駆け上がってきてしまっていた。バッツはチッと舌打ちをした。舌打ちをしながら感謝した。命の危険は嫌というほど感じていただろうに、バッツの危険を感じて上階に昇ってきてくれた仲間たちに。

「バッツ!!」

 叫んだレナの声は、同時に再び声を挙げた怪鳥にかき消された。怪鳥の殺気がより強く、重く、濃くなっていた。バッツ一人だったからこそ怪鳥は頭上に隠れ、余裕を見せていたが、四人が集まったことで怪鳥は遊ぶ事をやめたのだった。

 怪鳥がその大きな翼を広げ、数度羽ばたいただけで、恐ろしい速度の風が起こり、四人は簡単に吹き飛ばされた。バッツだけは少し後ろに飛ばされかけたものの、なんとか地面に身体を伏せた。バッツに比べて体重の軽いレナとファリスはそのまま吹き飛ばされ、背後の壁に身体を強く打ちぐったりと地面に倒れた。ファリスはかろうじて意識を残していたが、身体をくの字に曲げて悶絶していた。ガラフはとっさに柱の陰に隠れ強風を免れたが、直後に怪鳥が後足で放った蹴りで柱もろとも吹き飛ばされ、意識を手放した。万事休すだ。バッツはそう思った。剣を握っていた右手が恐怖にカタカタ震えた。

 しかしそれでも、バッツは立ちあがり、戦意を放り投げなかった。それは父から受けた誇りであり、倒れている仲間たちへの感謝だった。怪鳥が再びバッツを吹き飛ばそうと大きく羽ばたいた。バッツは腰をぐっと落とし、強風に耐えた。しかし、風に飛ばされた無数の瓦礫や礫が、容赦なくバッツの身体を撃った。体中に激しい痛みが走り、ついにバッツは膝をついた。

 悔しい。バッツはそう思っていた。怪鳥はもはや羽をたたみ、余裕の表情でこちらを見ていた。どうしようもないとバッツも心のどこかで実感していた。しかし、その反対側でバッツは、どこから湧いたのか判らないが、尽きることない戦意を、心の中に抱き続けていた。

 この局面を終わらせるべく、怪鳥がゆっくりとバッツ達の方へと歩みを進めた時だった。「……力を貸そう……」

 バッツの頭の中に、直接声が響いた。バッツは思わず辺りを見回した。しかしもちろん、誰も居るはずはなく、立っているのは自分と怪鳥だけだった。死に瀕し自分がおかしくなってしまったのかと困惑したまま、バッツは近づいてくる怪鳥に向かって真っすぐ剣を構えていた。

「望め」

 今度はさっきよりもはっきり聞こえた。聴いたことのない、男性の声のようだった。バッツはなんだかわからなかったが、とにかく仲間たちを護り、生き残る事を強く強く望んだ。

 バッツの持っていた剣がふわりと軽くなった。それはバッツの主観であったからそう感じたというだけで、実際には剣の重さは変わっていない。バッツは驚きながらも、先ほどより強く剣の柄を握った。自分でも驚くほど力がスムーズに入り、まるで自身と剣とが一体化したように思えた。

 怪鳥が自分の間合いギリギリまで距離を詰めた瞬間、怪鳥は左後ろ脚で思い切り蹴りを繰り出してきた。その瞬間、バッツの頭の中に無数の戦いの記憶が流れ込んできた。様々な猛者との、怪物との、魔物との戦いとの勝利の記憶。敗走の記憶。バッツは困惑した。それは明らかに自分の記憶ではなかったのに、どういったわけかバッツには自分のものであるかのような妙な実感があった。バッツは怪鳥の蹴りを、まるでいくつもの死線を潜り抜けた歴戦の覇者であるかのように優雅に、最小限の動きでかわした。そしてそのまま、かわす動きを活かして怪鳥の脚を剣で斬った。どこにでも売っている護身用の幅広の剣である。使い込んでおり、刃こぼれもあった。名刀などとはほど遠いバッツの剣は、しかし怪鳥の脚を一撃で斬り落としていた。戦闘中にも関わらず、怪鳥も、バッツも共に困惑した表情を見せた。怪鳥は突然自身の一部を失った感覚に。バッツは脚を切り落とした事に対するあまりの手ごたえの軽さに。しかしそれは幻想でもなんでもなく、バランスを逸した怪鳥は、大きな音を立てて地面に崩れた。遅れて、怪鳥の脚からは漆黒の血液が噴き出した。怪鳥がけたたましい雄叫びを挙げる。怒りと困惑とが混じった、これまでにない叫びだった。しかし片足を失った怪鳥は、轟音を立て横向きに倒れた。

 しかし、バッツは一歩、その場から下がりはしたものの、構えを解かなかった。怪鳥はまだ戦意を喪失してはいない。怪鳥はその眼で暗く強くバッツを睨みつけると、地面に接していないほうの翼を大きく広げ、そのままの姿勢で羽ばたこうとした。

 バッツは怪鳥が羽ばたく予備動作の時、既に動いていた。一歩踏み込み、バッツと怪鳥の間の空間に向かって地から天へ斬り上げた。ほぼ同時に、怪鳥が羽を振りおろしていた。怪鳥の羽ばたきが起こす風は、さきほどバッツ達を吹き飛ばした時よりも何倍もの強さをもった強風となり、まるで大砲の弾のようにバッツ達に向かって放たれた。しかし、バッツの放った一閃はその空気弾がバッツに届くより早く、その空気弾ごと、怪鳥の腹を裂いた。更に大量の血を噴き出し、怪鳥はもはや断末魔の叫びを挙げることもできず絶命した。

 バッツは怪鳥が完全に動かなくなるのを確認すると、ようやくゆっくりと息を吐いた。と、バッツの持っていた剣が突然重たくなり、バッツは思わず剣を取り落とした。しかし直後、バッツは体中に重さを感じた。剣が重たくなったのではなく、先ほどまで自分に力を貸していた何者かが自分から離れたために、剣を支えられなくなったのだ。

 辺りを支配していた瘴気は、怪鳥が倒れると同時に消え去っていた。バッツは疲労で今すぐ倒れ眠りたいくらいだったが、なんとか自分を奮い立たせると、仲間たちのもとへ走った。比較的ダメージが少なかったのか、ファリスはバッツが声をかける前によろよろと立ちあがり、目の前にある怪鳥の死骸を確認すると、安心したようにフーッと大きく息を吐き、横で気を失っているレナの身体をゆすった。

 バッツはガラフに駆け寄った。ガラフはもろに怪鳥の蹴りをくらっていたため、一番ダメージも大きいはずだった……が、ガラフはしっかりと防御と受け身をとっていたようで、床に身体を打ちさすがに気は失っていたものの、外傷は驚くほど軽かった。ゴブリンたちとの巧みな戦い方といい、恐らく、若いころはバッツなどおよびもつかないほどの戦士だったに違いない。ガラフの頬を叩くと、ガラフは呻き声をあげ、目を開いた。

 

 数分後、ようやく四人全員が立ち上がり、クリスタルルームの扉を前にすることができた。仲間たちはバッツがどうやって怪鳥を退けることができたのか不思議に思ったが、バッツはうまく説明することができなかった。体の中に何者かが入ってきた、とだけは説明したが、当のバッツ自身が未だその感覚に疑いを持っていたのだ。ともかく、四人はレナの父、タイクーンの王を探してクリスタルルームの扉を開いた。

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2010/05/24

勝手に小説化「アマガミ七咲逢編」言い訳と反省

Filed under: コラム,勝手に小説化アマガミ七咲逢 — ksk @ 10:19 PM

アマガミ七咲逢編pdfファイル版はこちらです。
今後は、大規模な改訂以外はこちらのpdfファイル版のみ改訂します。

以下、完全に僕の反省と言い訳です。
今後の創作活動の為のメモ。
—————————————————————–
・そもそもなんでアマガミ小説化したのか
24時間企画でアマガミ七咲編をプレイした後、
ネット検索とかをしていて、
いろんなSS(ショートショート:超短編小説のこと)を見かけ、
自分もこういうのが書けるのかな、
みたいなことをツイッターで呟いたところ、
無言有言両方で反応があったので、
ケツを叩かれた気分になって一気に書きました。
人間、やればできるもんですね。それなりの生産スピードでした。

・なんでアマガミの七咲逢シナリオだったのか
プレイしたキャラで記憶が鮮明なのが、
直前に遊んでいた七咲逢だったから、というのが理由です。

・形式と方法
小説にしよう、と思ったのは、そもそも自分がシチュエーションを用意しての
SSを書けるほどキャラを熟知していなかったからです。
だから本編準拠としました。
プレイされた方は判ると思いますが、
本編のセリフを引用しまくっています。

七咲視点にした、というよりかは
ヒロイン視点でしか成り立たないだろう、と思いました。
アマガミは結構な部分
「恋しちゃってる女の子を見てニヤニヤするゲーム」
だと思うので、そうなると、単一視点でいくには
女性を視点にするのが楽だと思うのです。

・大問題
正直、恋しちゃってる女の子の気持ちには今までなれたことがない
 →妄想でがんばりました

・方法
3編に分けましたが…
原作に忠実→原作に忠実だけどちょっとずらす→原作から離す
という風に推移しようと思っておりました。
なんだかエヴァ新劇場版みたいだなと思った。

・要素
原作における七咲逢っていうキャラを分解してみたんですが……
まず最初に橘純一を好きになる理由が見つかりませんでした。
かつ、ドラマ的要素として出てくる諸要素は仲よくなった後。
だから橘純一はすごくいい人として書く事にしました。
言い訳的に変態という言葉が出て、実際はすごくいい人なのは、
いい人じゃないと七咲逢が恋をする要素がなかったからです。

ドラマにできそうな要素は水泳と弟との関係ですが、
このうち弟との関係を書いていると、もっとボリュームが増えそうだったので
彼の話はばっさりとカットしました。

・水泳
水泳の話は七咲逢を、恋愛を通じた成長物語の主人公とする上で
この上なく美味しい要素だと思うんですが、
ゲーム中七咲はほとんど一人でこの問題を解決します。
でもそれが七咲を人気の高いヒロインにしてるんじゃないでしょうか。
……逆に言うと、七咲っていうキャラは
主人公が殆ど介入しないからこそ、
プレーヤーが感情移入しやすいんだと思います。

でも、小説にすると、感情値とかアマガミでいう「☆」みたいな
分かりやすいフラグはないので、
できればちゃんとドラマというか、出来事を通して
橘純一を好きになるような要素を置きつつ、
水泳を通して成長させる流れにしたかった。
結果として書きあがった橘先輩は変態ではなくなりました。

・濡れ場
「久美沙織みたいなエロス」を要求されたんですが、
正直達成できた気がしません。次回頑張ろう。

・総括
書き癖がちょっと分かってきました。
課題点も出たので、次回作で改善したいです。
皆様の七咲逢像を壊していなければ幸いです。

・ぼそり
誰か挿絵描いてくんないかな…

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勝手に小説化 アマガミ 七咲逢3(完)

Filed under: 勝手に小説化アマガミ七咲逢,連載 — ksk @ 12:21 AM

(全体を印刷用にpdfファイル化したものをこちらにアップしてあります)

 ……繁華街の一角で橘先輩を待つ。クリスマスイヴのメインストリートは、赤白緑のクリスマスカラーで彩られ、街のそこかしこから甘いお菓子の匂いが漂ってくる。店先はどの窓もイルミネーションで装飾されて、手をつないだり、腕を組んだりして幸せそうな人にしているカップルでいっぱい。私もこれから、この中のひと組になるんだ。うきうきしながら腕時計を見る。待ち合わせ時間まであと2分。橘先輩、早くこないかな。

 それから数分、待ち合わせ時間を過ぎても橘先輩は来ない。ちょっと不安になって、ぐるりと辺りを歩いてみる。でも、先輩を見つけることはできなかった。そうだ、ひょっとしたら場所を間違えてるのかも。それとも先輩のことだから、待ち合わせ時間を一時間くらい勘違いしているのかもしれない。きっとそうだ。私は一人、幸福の笑い声の渦の中、橘先輩を待って佇んでいる。

 更に一時間経っても先輩は来ない。薄く曇った空はちらほら雪が舞い始めた。橘先輩、寒いです、早く来てください。口の中でそう呟いても、先輩がくる気配がない。ずっと立っている足が痛み始めてきた。

「先輩……早く来ないと私、帰っちゃいますよ?」

 そうつぶやいた声は、自分でも驚くほど悲壮感に見て居ていた。その時。遠く人混みの中に、見覚えのある顔が現れた。

「橘先輩!!」

 思わず声を上げる私。先輩は幸せそうに笑って、こちらに向かって歩いてくる。

「先輩、いくらなんでも遅すぎで……」

 言いだした言葉を最後まで言えなかった。橘先輩の両隣には、嬉しそうに笑う顔の女の人。この前、橘先輩と一緒に居た女の人達だ。そして、それよりもっと嬉しそうな、鼻の下をだらしなく伸ばした橘先輩。

「橘先輩……?」

 その場に足が刺さってしまったかのように動けない私の横を、私の事など見えていないかのように橘先輩達が通り過ぎる。女の人の一人が、こちらを向いて蔑むようににやりと笑った。次の瞬間、私の足元が崩れ、私の身体は真っ暗な闇の中にまっさかさまに落ちて行った。

 わけがわからず、恐怖に声を挙げようとしたが声は出ず、代わりに口からはごぼごぼと泡が噴き出した。どうやら、私は水の中にいるらしかった。水面を求めて手足をばたつかせてもがく私。見上げても水面が見えない。水が重たくて手足がうまく動かない。怖い。どんなに浮かびあがろうと頑張っても、身体は沈んでいく。全身に何かがまとわりつくような感覚が襲いかかって、私の身体は引きずられるように沈んでいく……

 そこで、私は夢から覚めた。真っ暗な部屋、自分のベッドの中。心臓が激しく音を立てている。体中に汗をかいて、パジャマが気持ち悪く肌に張り付いていた。私は夢を見ていたのだと理解するまで数秒かかって、枕元の多機能時計を見る。12月15日、午前3時すぎだった。

 ぐっしょり濡れたパジャマを替えて、私はベッドに座り込む。もう一度枕元の時計を見る。この時計は、昨晩、誕生日を迎えた橘先輩にプレゼントしたものと同じものだった。

「弱いな、私……」

 呟いて、ちょっと涙がこぼれた。橘先輩を自分から遠ざけ、水泳に専念するために、もう私のところに来ないでください、と橘先輩に言った私だったが、橘先輩の笑顔が見たくて、私は自分から前言を撤回して、橘先輩の自宅を訪れてプレゼントを渡した。橘先輩は嫌な顔ひとつせず、私のプレゼントを子供のように喜んでくれた。プレゼントを「七咲だと思って枕元に置く」とまで言ってくれた事に、先輩の前では冷静を装っていたが、先輩と別れてから、私は舞いあがって、帰りに先輩に買ったのと同じ時計をもう一つ買って、自分の枕元に置いた。

 今さっき悪夢に現れたクリスマスイヴまで、実際にはあと9日。背泳の選考に通れたら、イヴに橘先輩を誘おう。きっと、先輩はプレゼントを渡した時みたいに喜んでくれるはずだ。私は時計を手にとって、それを橘先輩であるかのように優しく胸に抱いて、再びベッドに潜り込んだ。

 

 翌日から、私は練習のメニューを増やした。ハードなメニューに加えて、部活の時間が終わっても、時間の許す限りプールで自主トレーニングを続け、部活外の時間も河川敷などでジョギングに励んだ。オーバーワーク気味であることは判っていた。けれど、無理にでも身体を動かしていないと、選考まで自分の心がついて行きそうになかった。

 私自身から逃げたいと思う私の気持ちとは裏腹に、タイムは奮わなかった。今まで自由形選手だった私にとって、それは当然の現実だった。普段背泳など殆ど練習していないのに、転向して一週間で校内の選考に通ろうなんて、そんな甘い話があるはずはない。でも、私はその現実をわざと無視した。思う通りに動かない身体も、ますます抵抗感を増す水も、時々遠くから不安げな顔を見せる塚原先輩も、私自身の橘先輩に対する気持ちも全部、全部無視をした。

 結局、背泳の選考にも私は落ちた。当日は、全てがぐちゃぐちゃに崩れていた。飛び込んだ時からゴールにたどり着くまで何一つ褒めることのできない泳ぎ。当然、タイムも無残なものだった。これまで下がり続けたタイムに、ついに水に入ることすら怖いと感じ始めていた私は、部員たちの私を見るいたたまれない視線が辛くて、その日、私は部活が終わる時間よりも前に、プールから逃げるように退出した。

翌日、昼休みに顧問から呼び出され、私は職員室で背泳の選考からの落選を宣告された。私は誰とも会いたくなくて、屋上で時間を潰していた。春から秋までは校庭の木々の四季がよく見えて、お弁当を食べるのにちょうどいい休憩場所として人が集まる屋上も、12月は制服の中にセーターを着ていても肌寒く、人の姿はほとんどない。でも、それが私にとっては都合がよかった。私は沈んだ気分のまま、とぼとぼと屋上を歩く。

 でも、そこには私が今、一番自分を見せたくない人が居た。

「七咲」

「あ、橘先輩」

 橘先輩の前で、私は一瞬で「後輩としての七咲逢」を用意する。クールで、面倒見が良くて、いつも橘先輩をちょっと上から見ている、生意気な後輩としての私。

「選考……どうだった?」

 開口一番、先輩は私が一番聞かれたくないことを聞いてきた。

「結局、背泳もダメでした。さきほど、顧問の先生から言われてしまいました」

 こともなげに答えた。心の片隅が痛んだような気がした。

「え……」

 ショックを受けたような顔の先輩。

「仕方ないんです。種目を替えて、いきなりいいタイムが出るなんてこと、ありませんから」

 先輩の顔をまっすぐ見ないように、私は目線を外した。

「でも、それじゃ……」

「先輩、私、案外大丈夫ですよ」

 橘先輩の言葉を遮り、そう言って私は、精一杯笑ってみせた。

「大会は来年もありますから。来年こそ私、選考に通ってみせます」

 私が吐いたその言葉は、まぎれもなく自分と橘先輩両方に向けた言い訳であり、強がりであった。でも、言い訳でもそうやって言えば。

 橘先輩。来年も、私を見ててくれますか。

 そういう打算が、私の心のどこかにはあったのだと思う。

「……そうか。頑張れよ」

 橘先輩が何か、私に言いたいことを呑みこんだような顔をする。

「ええ。それでは、私はこれで」

 私は橘先輩をみているのが辛くて、その場を去った。先輩と別れてから、女子トイレの個室で、私は少し涙を流した。

 放課後の部活、再び自由形で自主トレーニングをする。選考の直後で、部活は数日間の自由参加になっていて、参加者もまばらだった。受験を控えた塚原先輩の姿もない。やがて日が沈んだ頃、プールに残っている者は私以外誰も居なくなり、しんと静まりかえるプールの中で、私が泳ぐ水音だけが孤独に響いていた。

 一人で泳ぎ始めてしばらくして、私は身体に疲労から来る重さを感じてプールから上がり、プールサイドに座り込む。誰も泳がないプールは、循環する水の力だけで僅かに水際が動いていて、人の居なくなった世界に自分だけが居るようで、心細くなった。

 スイムキャップを外し、滴る水滴を放ったままで、私は水面を見つめていた。誰も泳いでいないプールは、まるで水が襲ってくるかように、昏く、深く感じられた。そして次の瞬間、私は心の中に大きな恐怖を感じた。昏くて深いのはプールの水ではなく、私の心の闇だと気付いたからだ。自分にとって唯一の誇りだった水泳で失敗した今、私を支えているものは、私が作った、冷静を装う七咲逢というハリボテの人物像だけ。それに気付いたとき、紙のように薄っぺらな私の心は、くしゃり、と音を立てて崩れた。

 視界がぼやける。目から涙があふれてきていた。続いて、嗚咽が漏れた。誰も居ないプールに私のすすり泣く声が響く。

「橘先輩……」

 橘先輩も、塚原先輩も、自分の我儘で遠ざけたのは他でもない自分なのに。都合がいい。そう思っても、私の口からは弱音がこぼれる。

「橘先輩……寂しいです……」

 そうつぶやいた時、私の背後でプールの扉が開いた。びっくりして立ち上がり振りむくと、そこには橘先輩が立っていた。

「七咲?こんなところで何をしてるんだ?ほかの部員の皆はもう帰ってるのに」

 先輩は怪訝そうな表情で私の事を見ていた。

「橘先輩……?」

 先輩、どうしてここに居るんですか。先輩、水泳部員じゃないのに。

「七咲?……泣いてるのか?」

 橘先輩は私の顔を見て、心配そうにこちらへ歩きだす。

「あ……」

 見ないでください、先輩。

 私は、そのまま地面を蹴って、背後のプールに飛び込んだ。

 嘘をついてばかりの、惨めな自分の姿を橘先輩に見られたくなかった。橘先輩にあわせる顔が無かった。水泳しかなかった私が水泳でのプライドを失って、最後に残っていた作りものの私も失って、もう私の中には何もないのに、そんなにまっすぐな目で見られたら、耐えられませんよ、橘先輩。

 水の中に逃げれば、制服を着た橘先輩からは逃れられるだろうと思ってた。もういっそ、このまま身体が浮かび上がってこなければいい。愚かな私の身体なんて、水の中で融けてなくなってしまえばいい。そう思ったけれど。

 私の思惑とは裏腹に、橘先輩は。

「七咲っ!?七咲っ!!」

 橘先輩は制服のまま、迷わずプールに飛び込んできた。もがくように水を掻いて、先輩は私の方へ泳いできて、私はそんな先輩から逃げるように泳いで離れる。

「七はぎっ!大丈夫がばっ!?」

 叫ぶ口に水が入り、先輩はむせてしまう。、

「大丈夫に決まってるじゃないですか!制服のまま飛び込んできて、何を考えてるんですか!」

「そんなの、七咲の事に決まってるだろ!」

「えっ……!!」

 プールに響いた先輩の大きな強い声を聞いて、私の身体はしびれたように動かなくなった。二人とも、プールの中央に立ちつくす。

「七咲、そっちにいってもいいよな?」

 優しい顔で、先輩が言う。

「……はい」

 橘先輩は、ゆっくりと私に近づくと、そっと、私を抱きしめた。

「あ……」

 濡れた先輩の髪が私の頬に触れて、制服越しでも先輩の体温を感じて、私の目からはもう一度、堰を切ったようにぼろぼろ涙が流れた。

「ああ……せん、ぱい……」

 発した声は、殆ど音にならなくて。

「七咲……」

「橘先輩……私、もう」

 ぐっと涙をのみこむ。

「もう、泳ぐのをやめたいです……」

 もう泳がなくていい、そう言ってもらえると思ったけれど。私が言った瞬間、橘先輩は私の両肩を掴んで、引き剥がすように私の身体を離した。びっくりして、おびえた表情で先輩を見て、手を振りほどこうとした。だけれど先輩は私を逃がすまいとするかのように手を離さない。

「……うして」

 そのまま俯いて、何か呟く橘先輩。

「……先輩?」

 先輩は突然顔を上げて、私をまっすぐみて言った。

「どうしてそんなことを言うんだ!!七咲はこれまで頑張ってきたじゃないか!!一度の選考に落ちたからってなんだよ!七咲にとって水泳はそんなに簡単な事だったのか!?違うだろ!!」

 初めて聞く、橘先輩の怒った声。初めて見る、怒った顔。私は混乱して、先輩の言葉に胸を貫かれたような気がして、目をそむけることすらできなかった。

「今、七咲が泳ぐことをやめたら」

 私の両肩を掴む手にぐっと力を込めて。

「僕は七咲を、軽蔑する」

 そう言って、先輩は私をもう一度抱き寄せて、強く強く、痛いくらいに抱きしめた。私はその腕の中で、締め付けられる両肩に大きな安心を感じて、静かに泣き続けた。

 

 どれくらいそうしていただろう。私が落ち着きを取り戻して泣くのをやめ、やがて先輩はゆっくり、私を抱きしめていた腕を緩めた。私は力を抜いて、水面に身体を横たえる。橘先輩は立ったまま、私の肩を優しく支えて、息づかいが聞こえそうなくらい近くで、私を見つめていた。

「先輩……」

 呟いた私の肩には、まだ先輩が強く締め付けた余韻が残っている。

「七咲、えっと……」

 空いているほうの手で気まずそうに頬を掻く先輩。その顔には、いつもの優しさが戻っていた。

「すみませんでした……私、先輩に心配をかけてしまってたんですね」

「ううん、いいよ。ねぇ、七咲」

 じっと見る橘先輩から、私は目を離せない。

「さっきはああ言ったけどさ、七咲は頑張りすぎだと思う。もっと、辛い時は休んでもいいんだよ。えっと、上手く言えないけど」

「……はい」

橘先輩は、しばし言葉に詰まって、うんうん唸っている。

「ええと……頑張りすぎるんじゃなくて、水泳を楽しんでほしいんだ」

「はい……先輩、ありがとうございました」

 橘先輩の一言一言を大事に受け取って、自分でも驚くほど素直に、私はそう返事した。心の中に溜まった澱のような何かが、少しずつ流されていくような感覚。プールの水に対する恐怖も、いつの間にか消えている。

 私は目を閉じて、ここまでの色々な事を思い返していた。橘先輩や塚原先輩に言ってしまったひどい言葉。自分から逃げ続けていた数週間。これから、一つずつ謝って、正していこう。そう素直に考えて、ゆっくり目をあける。間近にある先輩の顔は、プールの天井のライトがまるで後光のように輝いていて、私にはとても眩しく見えた。

「あの、私はもう大丈夫ですから、先に上がっていてもらえますか?それで」

 一瞬言葉に詰まったけれど、私は勇気を出して言った。

「あの……一緒に……」

「うん、一緒に帰ろう。ロッカーで着替えて、それから校門のところで待ってるよ」

 微笑む先輩。やっぱり、先輩が笑っている顔を見るのは、嬉しい。

「……はい」

 私の返事を聞いて、先輩は水から上がると、脱衣所への扉を開け、出て行った。

 

 部室の脱衣所で制服に着換え、鏡で顔を確認する。泣きじゃくった目は少し赤くなっていて、先輩に会うのがちょっと恥ずかしいと思った。部室の鍵を閉めて、職員室に残っていた顧問に鍵を預けて校門に向かうと、既に着替えを済ませたジャージ姿の橘先輩が待っていてくれた。

「橘先輩、お待たせしました」

「おう、お疲れ様」

 なにも無かったかのように笑って私を迎えてくれる橘先輩。もうすっかり暗くなった通学路を、二人で並んで自宅へと帰った。私達は殆ど言葉を交わさずに歩いた。何か橘先輩とお話をしたかったけれど、プールでの事を思い出して胸がいっぱいになり、橘先輩への感謝の気持ちと、申し訳なさと、一緒に居られる事の嬉しさがまぜこぜになって、ついに私は一言も話すことができなかった。

 橘先輩と別れる所まで来て、私たちは曲がり角の街頭の下で、どちらともなく足を止めた。

「あの、七咲」

「……はい」

 橘先輩の発した声は少し緊張していて、つられて私も緊張してしまう。

「えっと、こんな時になんなんだけど」

 心臓の鼓動が早まりはじめた。先輩は私をじっと見つめている。

「今度の日曜日って、予定は空いてるのか?」

「え……」

 言われた私は一瞬、誘われたということが判らず、頭が真っ白になった

「よかったら、僕と遊びに行こうよ」

「遊びに……ですか!?」

 ようやく先輩の言ったことが理解できて、嬉しさでちょっと声が弾む。

「うん」

 恥ずかしそうに頷く橘先輩。

「先輩と……遊びに……」

 反芻するように呟く私には、理解はできたけれどまだ実感がわいていなかった。

「だ、駄目かな」

 さっきまであんなに力強く私を励ましてくれたのに、急に弱気になった先輩に私はちょっと笑ってしまう。

「なんだよ」

「いえ、私、今まで中学ではそんなふうに誘われた事が無くて……」

 適当な答えではぐらかす私。

「うう、七咲、行くのか行かないのかを……」

 緊張の極みに達しているのか、先輩は声が少し震えていた。そうか、先輩も緊張しているんだ。

「え、あっ、すみません。……行きます。私、先輩と遊びに行きたいです」

 はっきりと答えた私は、少し赤くなっていたと思う。

「ほ、ほんとに!?じゃあ」

 そういって先輩は鞄の中に手を突っ込み、がさがさと中身を探る。少しして、先輩は紙きれを二枚鞄の中から取り出した。

「これ、手に入れたんだ。よかったら七咲と行こうと思って」

 差し出された紙は、水族館のチケットだった。

「はい、構いませんよ」

 先輩の提案を快諾する。

「本当に?」

「はい、是非」

「おおっ!やった!!じゃあ、日曜の13時に、お昼を食べてから駅で待ち合わせでいいかな?」

 無邪気に嬉しがる橘先輩。興奮した子供のように目が輝いている。

「はい、先輩こそ、寝坊して遅れたりしないでくださいね」

 それは、橘先輩からデートに誘ってもらった事の照れ隠しだったけれど、すごく久しぶりに、橘先輩を信頼する自分の心から出た言葉のような気がして、私は清々しい気持ちだった。

「もちろんだよ!じゃあ、七咲、またな!」

「橘先輩!!」

 鞄を持っていない方の手を挙げ、家に向かって歩き出そうとした先輩を私は呼びとめた。今言わないと、もうタイミングを逃してしまうような気がして。不思議そうにこちらを見る橘先輩。私は深呼吸をしてから、ゆっくり言った。

「先輩、今日は本当に、ありがとうございました。」

「いや、僕は何もしてないよ」

 橘先輩の謙遜に、私は首を左右に振る。

「いいえ、そんなこと、ないと思います。先輩に沢山……元気をもらいました。先輩のおかげなんです」

 照れたように笑う橘先輩。

「それで、あの……日曜、楽しみにしてます!」

 橘先輩の目をまっすぐ見て言った。

「うん。僕も楽しみだよ」

「はい!それでは先輩、また」

 そういって、私達は別れた。スキップしたくなるくらい踊る気持ちを抑えて、だらしなく笑ってしまいそうな顔を引き締めて、私は家へと向かった。

 

 日曜日の昼、一時少し前。私は先輩と待ち合わせしていた駅に向かった。街は年末に向かって慌ただしさを帯びていて、駅前から街の中心に向かって伸びる通りにはクリスマスの装飾がきらきら光っている。私は前に見た夢を思い出して、駅が近くなるにつれて少し不安が募ってきた。

 待ち合わせの場所に着くと、橘先輩はもう到着していて、私の不安は晴れた。橘先輩はジーンズに黒いジャケットを着て落ちついた印象。私はいつもの着古したダウンジャケットで、先輩はきっとそんなことを気にするはずはないけれど、あまり気を使っていない自分の格好にちょっと恥ずかしくなってしまった。

 先輩は私を見かけると、嬉しそうに手を振った。

「先輩、こんにちは」

「おう」

 どちらともなく、二人で水族館に向かう。何度か学校から一緒に下校しているが、私服で二人で並んで歩くと、一歩仲良くなったみたいで嬉しかった。歩きながら、いつもの他愛のない話。新しく出たゲームの話、期末テストの話、美也ちゃんの話。一つ一つの話で、やっぱり橘先輩は素直に楽しんでくれて、それが私もとてもうれしかった。

 水族館のあるポートタワーへは、駅から街に向かう道とは逆へ、山を降りるバスに乗って行く。海に近づくに従って潮の香りが強くなっていき、建物の間から港に泊まる船が見え始める。ランドマークになっているタワーが段々大きく見えるようになって、駅から二十数分で、私達はポートタワーに到着した。

 受付にチケットを渡して水族館の中に入る。最近新しくオープンしたばかりの水族館だった。内部は照明を暗めに、水槽の内部を明るくデザインしていて、天井がとても高く、魚を観察するには水槽を見上げるような格好になり、まるで海の底を散歩しているかのようだった。

「へぇー、面白い生き物を中心に展示してあるんだな!」

 目をキラキラ輝かせている先輩。そういえば、美也ちゃんも楽しい時にはこんな風に目をキラキラさせてはしゃいでいたっけ。先輩たちの血筋なのかもしれない。

「先輩、あまり走り回ると転びますよ」

 先輩にそういいながらも、私も水族館をとても楽しんでいた。

「ほら、先輩、これすごいですよ」

「おっ、どれどれ」

 珊瑚礁を再現した水槽だった。カラフルな珊瑚に、さらに色とりどりの魚をくわえて、ちょっと目に痛い気もするけれど、とても明るくて元気な雰囲気の水槽になっていた。

「すごいな……」

 見とれる先輩。私は水槽下部の説明書きに視線を落とす。

「えっと……この青いのがルリスズメダイ……これかな。それから黄色いのがチョウチョウウオ。ほら、これですよ先輩」

 水槽の黄色い、丸い、薄い魚を指す私。

「すごいな、作りものみたいだ……」

 しばし、鮮やかな黄色に目を奪われ、二人でじっと水槽を見つめる。

「ふふっ、本当にきれいですね」

「いつまで見てても飽きないな……」

 そういう橘先輩は、本当に水槽に目線がくぎ付けになっていた。

「……先輩?」

 呼びかけても橘先輩は反応がない。本当に見入っているようだ。周りの人がパントマイムだと勘違いするのではないかと思うほどに微動だにしない。まるで水槽と合わせて一つのオブジェになってしまったかのようだった。

「あの、橘先輩」

 私の声も耳に入っていないようだ。

「先輩、ちょっとヨダレ出てますよ!」

 先輩の腕を引いて言うと、先輩ははっとしたようにこちらを見て、口元をぬぐう。

「ご、ごめんちょっと水槽に見入ってて……」

「ふふ、冗談です」

「へ?」

 不思議そうな顔で見る先輩。

「ヨダレは垂れてません」

「うっ……意地悪だなぁ、七咲……」

「はいっ」

 にっこり笑って返事をした。

「どうします?先輩が気に入ったのなら、もう少しここに居ても……」

「いや、そろそろ次の水槽にいってみよう。もう穴があくほど見たしね」

 橘先輩はそういい、私達は二人で笑った。

 

 私達は熱帯を中心にした展示場から、寒帯を中心とする展示場へ移動する。ひときわ大きな水槽はペンギンが展示されていた。三メートルほどの高さに水面があり、水面近くをペンギンが気持ちよさそうに泳いでいる。

「ほら、先輩ペンギンですよ!かわいいですね!」

「ほんとだ、なんだか飛んでるみたいだな」

 水槽の手すりに捕まって、二人で空を仰ぐように水槽を見る。

「こうして手をバタつかせていると、ペンギンは鳥なんだなって実感しますね。本当は空を飛びたいのかな……」

「鳥、か……」

 感慨深そうにペンギンを見つめる先輩。

「少し、羨ましいですね……これだけ水の中を自由に泳げたら、気持ちいいんだろうな……」

 ふと私の口から出た言葉に、先輩はこちらを見た。

「そういえば、七咲はどうして水泳を始めたんだ?」

「どうして……ですか」

 先輩に聞かれて、私は小さいころの事を思い出す。

「私……小さい頃は、身体が弱くて、よく風邪を引いてたんです。でも、お医者さんに水泳を勧められて、水泳を始めてからはずいぶんよくなったんです。だから、私が水泳を始めたのは、身体を鍛えるため……ということになりますね」

 そう、そこが私の水泳との出会いだった。他の運動に比べて身体にかかる負荷も小さく、全身運動になる水泳は、子供の頃の私や高齢者のような者には適したスポーツだ。そういえば、最初は水が怖くて、泣きながら親に手を引かれてスイミングスクールに通ったっけ。

「それからは、だんだんスイミングスクールにいくことが好きになりました」

「それはどうして?」

 興味深そうに聞く橘先輩。私の小さいころの記憶が徐々に鮮明になってきた。

「はい、スイミングスクールの入り口に、マスコットキャラの巨大なペンギンの人形があって、それに会いに。ふふっ、単純だったんですね、私」

「へぇ、なんだか可愛いな」

 微笑む橘先輩。

 私は、更に記憶を辿る。理由はそうだったけれど、でも中学や高校になっても水泳を続けたのはそれだけが理由ではなかったはずだった。

「それから……そう、だんだん上手に泳げるのが、タイムが伸びるのが楽しくなって、水の中にいること自体が楽しくて……」

 そうだ、私は、だから泳ぐことを続けていたんだ。楽しいから、それだけでよかった。友達もたくさんできて、身体も丈夫になって、私という人間を豊かにしてくれる水泳を、私は好きになったんだ。

 でも、最近の私は自分から水泳を遠ざけた。自分の身体がうまく動かない事に苛立って、水泳でつながった大事な人達をないがしろにした。最後には、水泳自体を怖がって、結果的には自分そのものから逃げていた。

「そうだ、私……」

「七咲?」

 優しく笑顔で聞く先輩。ひょっとしたら、先輩は私にこのことを考えさせるためにここに誘ってくれたのだろうか?私の心の中で、ずっとつかえていた何かが、少しずつ溶けていくような気がした。こんなに簡単な事だったのに、どうして気付かなかったんだろう。馬鹿な自分にちょっとやきもきすると同時に、私は解放感を感じ始める。

「橘先輩、私、思い出しました。私、楽しいから泳いでたんです」

「……そっか、よかったな」

「はいっ!」

 私は晴れやかに気持ちで、先輩に応えた。

 

 それから、私達は時間をかけてじっくり水族館を楽しんで、ポートタワーを後にした。辺りはすっかり暗くなっていて、バスの帰り道は窓の向こうを通り過ぎる街灯をぼうっと見つめていた。先輩が何を考えているのかは判らなかったけれど、私はこれからの事を考えていた。

 今私の右隣に居る橘先輩。初めは妙な出会いだったけれど、いつしかこの明るく、ちょっと変態で、でも優しい先輩に私は恋をした。その気持ちが少しずつ大きくなっていき、先日のプールで気持ちが一杯になって、今はもう身体から溢れそうなくらい、育ち続けている。

 私はこの自分の気持ちを、どうにかしたい。橘先輩は私が何度も見たように、一見変態に見えて、いや変態であることには変わりないとしても、とても素直で、素敵な人だ。私の他にも、私と同じように橘先輩に気持ちを抱えている人は居るかもしれないし、橘先輩も私が橘先輩に抱くように、誰かに気持ちを抱いているのかもしれない。私の気持ちは、橘先輩に受け取ってもらえないかもしれない。

 でも、私は怖がらずに、自分の気持ちを橘先輩に贈ろうと思った。断られてしまってもいい、それでもまっすぐに、怖がらずに隠さずに、私らしく気持ちを伝えよう。街の光を見つめながら、そう私は決意をした。

 

 駅前のファミリーレストランでお喋りしながら夕食をとって、私達は自宅への道を歩く。20時を回った住宅街はしんと静まりかえっており、どこかの家のテレビの音や、子供のはしゃぐ声が遠くから聞こえていた。

「七咲、実はさ」

 歩きながら、橘先輩が言う。

「はい?」

「今日の水族館のチケット、貰いものなんだ。……塚原先輩からの」

「えっ……」

 思わず、私は足を止める。先輩は私の方に向き直って続けた。

「実は、相談されてたんだ。七咲がスランプみたいだけれど、何か思い当たることはないか、って。でも、僕にも七咲のスランプの原因は判らなかったし、その時は何も答えられなかったんだけど」

「そう、だったんですか」

 何も言わない、と言って私から離れていた塚原先輩。部活以外の時間も心配をしてもらって、迷惑をかけていたことに私は申し訳なくて、涙が出そうだった。

「『あなたは七咲と仲が良いみたいだから、気分転換に誘ってあげてくれ』って言われて、このチケットを渡されたんだ。でも、ちょうどよかった」

「ちょうどよかった、ですか?」

 私は首を傾げて聞き返す。

「うん。僕も七咲と遊びに行きたいなって思ってたところだったし。今日は本当に楽しかったよ」

 そう言われて、私は嬉しさでいっぱいになり、思わず笑みがこぼれた。

「ふふっ、私も楽しかったです。今日はありがとうございました」

「うん、それじゃあ」

「あ、橘先輩」

 帰ろうとする先輩を呼びとめる。私は、高鳴る胸を抑えて、少し深呼吸。

「あの、もしよかったら」

「うん?」

「イヴの日、予定は空いていますか?」

 私の質問に、橘先輩の頬が少し紅くなった。

「えっ、イヴの日……」

「もしかして、もう予定が入っていますか?」

 先輩はちょっとまじめな、迷ったような顔をする。断られたら諦めようとは思っていたものの、胸が締め付けられるように苦しかった。

「うーん、どうしようかなぁ……」

「……」

 一瞬の沈黙のあと、橘先輩は笑った。

「ははっ、冗談だよ、大丈夫。一緒に遊ぼう」

「ほんとですか!?もう、意地悪しないでください、先輩」

 怒ったように言ったつもりだったけれど、私の声は嬉しさを隠せなかったと思う。

「うん。どこにいこうか?」

 そう言われて、私は橘先輩を誘う事が目的だったので、まだ何も決めていない事を思い出した。

「行き先は……すみませんが、秘密、ということでよいですか?」

「ううん、どこだろう、気になる」

「ふふっ、喜んでもらえるといいのですが」

 そう言いながらまだ決めていないのだけれど、先輩の反応は可愛らしくて、面白かった。

「七咲とならどこだって大丈夫だよ。あとで、待ち合わせ場所と時間を教えてよ」

「はい、分かりました」

「じゃあ、もう時間も遅いし、そろそろ」

「呼びとめてすいません。先輩、イヴの日、楽しみにしています」

 そうして、私達は挨拶を交わし、それぞれの家へと向かった。

 一人になって、家までの道を歩く。水泳がスランプだったころは憂鬱だった道が、今ではとても輝いて見えた。響く私の靴音も、気のせいかいつもよりちょっと高い気がする。早くイヴが来ないかなと思いながら、私は帰宅した。

 

 イヴの前日。私は夜少し早めにベッドに入ったものの、なかなか寝付けなかった。昼間のうちに、橘先輩には場所と時間を伝えた。私が伝えた場所に、橘先輩は意外そうな顔をしていたけれど、私は自分の気持ちを橘先輩に伝えるための場所として、その場所を選んだ。

 橘先輩には迷いなく決めたように見せたが、実際には色々な事を考えた。海辺や公園でゆっくりしようか、それとも繁華街でケーキを食べながら、もしくはおじさんが所有している温泉でバスタオル一枚で迫ったらどうだろう。ぐるぐる何周も思考を行ったり来たりさせた結果、私は結局、変哲もない場所を選んだ。

「先輩、なんて思うかなぁ」

 橘先輩とイヴを過ごすと考えただけで、こんなに胸が高鳴るなんて。

ふふっ、先輩、明日が待ち遠しいです。

 私は、枕元の多機能時計を橘先輩に見立ててその頭を撫でると、目を閉じた。

 

 翌日、私が橘先輩とのクリスマスデートに選んだ場所は結局、学校の校舎だった。クリスマスイヴの輝日東高校は、創設祭と称して生徒会とクリスマス委員主催のパーティーが催される。当日は一般の人にも解放し、地元商店街とも連携して学校内は結構なにぎわいを見せる。

 生徒たちは原則、創設祭に参加する事になってはいるが、それでもクリスマスイヴという特別な日には先生たちの監視も甘く、校内の仲の良いカップルがそろって欠席することもある、と水泳部の恋多き先輩が話していた。

 創設祭は午後と夜間に行われ、私は午後の部、水泳部の出店のおでん屋台を手伝うことになっていた。OBOGの先輩方や、引退した三年生、美也ちゃんや中多さんも来てくれて、朝からばたばたとした時間を過ごした。おでんの売れ行きは好調で、三時頃にはもう追加で買いだしに行かなくては間に合わないくらいだった。

 夕方五時を周り、約束の時間が近づく。私が交代を済ませて待ち合わせ場所に行こうとしていると、橘先輩が屋台に訪れていた。

「先輩、来てくれたんですか?」

 嬉しさと、他の部員の前という恥ずかしさが同居する。

「うん、七咲のエプロン姿を見ようと思って……って、あれ」

「残念でした、さっき着替えたところです。惜しかったですね、先輩」

 そう言うと、橘先輩は本当に悔しそうな顔をした。

 

 それから私達はごく普通に、創設祭を見て回った。文科系部活の展示、ステージイベント、屋台……8時を回った頃、創設祭はフィナーレに向けて、一層の盛り上がりを見せる。

「さてと、だいたい一通り見たよね。メインステージに行こうか?」

 そう言う橘先輩の袖を掴んで、ちょっと引っ張る。

「それもいいんですが、先輩、ちょっと来てほしいところがあるんです。いいですか?」

「うん、どこ?」

 不思議そうにする先輩。

「こっちです」

 橘先輩の袖を引いて、私は喧騒の外側へ。関係者以外立ち入り禁止のロープをこっそり超えて、校舎の裏側へ連れて行く。

「ここって……」

 橘先輩を連れてきたのは、私が橘先輩と初めて遭遇した、あの場所だった。無骨な非常階段、照明もなく薄暗い部室近くの校舎裏。お世辞にもクリスマスイヴのムードとは程遠い場所。橘先輩はきょろきょろとあたりを見回している。私はそんな橘先輩の前に立って、先輩を見つめた。先輩はそんな私に気付いて、辺りを見るのをやめ、私の方を向いた。

「先輩、私、聞いてもらいたい事があるんです」

 声を出すのと同時に、心臓が強く鼓動し始める。

「聞いてもらいたいこと……?」

 先輩も心なしか、声が緊張しているように思えた。

「はい。……私の、気持ち、です」

 ここまで言ったら、もう最後まで言わなくてはいけない。私は後戻りできなくなった怖さと、恥ずかしさと緊張で、頭がくらくらするような気がした。

「七咲の……」

「いい……ですか?」

 橘先輩が小さく頷いたのを確認して、私は続けようとして……口が動かない。数秒の沈黙。

「どうしたの?」

 しびれを切らせたように、橘先輩が訊く。でもその視線も、どこを見ていいのかわからないかのように泳いでいる。

「困り……ました。いざ言うとなると、一言でいいはずなのに、なんて言ったらいいかわからなくて……伝えたいことは一杯あって、でも言葉にならなくて、どうしていいのか、その」

「うん……うん」

 橘先輩の方を見なくちゃと思って、でもまっすぐ見つめることができなくて、私の視線も行ったり来たり。顔は、きっと真っ赤になっている。

「先輩、笑わないでくださいね……」

「大丈夫、全部聞くから」

 先輩の優しい言葉に、私は少しだけ胸が軽くなった気がした。

「では、えっと……」

大きく深呼吸。覚悟を決めた。私は、心の中で一歩踏み出した。

「私、橘先輩の事が、好きです」

「うん」

 先輩は、私の目を見て、真正面から私の言葉を受け止めてくれた。

「気持ちを抑えようとしても、もう駄目なんです。隠そうとしても隠せなくて、気持ちがどんどん大きくなっていって、身体から溢れてくるんです」

 一気にまくしたてるように私は言って、そこから言葉が続かなくなり、足元に視線を落とす。視界には橘先輩の制服のズボンと革靴。そういえば、これが最初に見た橘先輩の姿だっけ。

 何か言わなくちゃ、冷静にならなきゃと思っても、どんなに違うことを考えようとしても、すぐに思考は橘先輩の所に引き戻されて、何も言葉が出てこない。次第に、頭が混乱し始めたとき。

「七咲」

 橘先輩に名前を呼ばれて、私はびくりと顔をあげる。先輩は優しく微笑んでいた。

「……僕も、七咲の事が好きだ。」

「えっ」

 思わず、私の口から声が漏れる

「えっと……嬉しいよ、七咲が僕の事をそんなに想っていてくれてたなんて」

 恥ずかしそうに、先輩は頬を掻いた。

「ほ、本当ですか!?」

「うん」

 橘先輩には他に好きな人が居るかもしれないと思っていた。私なんて、橘先輩の沢山いる人間関係のうちの一人にすぎないと思っていたのに。イヴの約束を受けてくれて、ちょっとの期待はあったけれど、それでも橘先輩がきちんと私の方を見て言ってくれた現実の言葉に、私はまだ戸惑っていた。

「じゃあ、もう一度お願いします!」

 もう一度、今の言葉が聴きたくて。ちゃんと準備をして、心に刻みつけておきたくて。

「七咲、好きだ」

 先輩の言葉を聞いた次の瞬間、私は橘先輩の胸に飛び込んでいた。橘先輩の胸に額を、頬を押しつけて、自分の想いを身体に乗せて。橘先輩はそんな私を優しく抱きしめてくれた。その時、校庭の方から大きな歓声が上がった。創設祭ももうフィナーレを迎えているらしい。

「七咲」

 私が顔を挙げると、橘先輩が私を見ていて、なんとなく橘先輩の気持ちが分かった気がして、私はゆっくり目を閉じた。心臓が大きく鼓動している。怖い。意識が耳と、橘先輩の手が私の身体に触れている辺りに集中する。先輩の手にちょっと力が入って、それから呼吸の音がだんだん近くなって、そのすぐあとに、私の唇に、先輩の唇が重なったのがわかった。

 「んっ」

思わず声が漏れて、ぎゅっと身体が硬くなる。自分の心臓の音が体中を駆け廻り、緊張の中で、私はこの感覚を知っているような気がしていた。そういえば、初めてプールに入った時も、とても怖くて、身体が硬くなって。でも、水泳の先生に力を抜けと言われて、力を抜いたら自然にぷかぷか浮かんで、空を飛んでいるみたいでとても心地よくて……そうだ、水はこちらが怖がらなければ怖くない。力を抜いて、身体は浮くようにできてるから大丈夫。

ゆっくり身体の力を抜くと、橘先輩の唇の感触が伝わってきた。しっとりして、優しくて、甘やかで、橘先輩の気持ちが流れてくるようで……私はそっと、両手を橘先輩の背中にまわして、きゅっと力を込めた。今感じている幸せを離さないように、でも力を入れ過ぎて壊してしまわないように、優しく、大事に先輩を抱きしめる。橘先輩の手も私に応えるようにちょっとだけ力が入った。

しばらくのあと、橘先輩はゆっくり唇を離した。けれど私は餌をもっと欲しがる雛鳥のように、嘴を前へ。今度は自分から、先輩にキスをした。びく、と先輩の肩が跳ねて、それからもう一度、優しく私を包んでくれた。蕩けてしまいそうなくらいの幸せに包まれて、ずっとこうしていたいと思っていると、足元でにぁ、と猫の声がして、私は片目をあける。いつも校舎の裏側で出会う黒猫が、構って欲しそうに私の足に頬を寄せていた。

そうか、お前が私達を逢わせてくれたんだもんね。私は心の中でありがとう、と呟いて、構ってやれなくてごめんねと思いながら、また目を閉じた。黒猫はやがて構ってもらうことを諦めたのか、どこかに走り去って行った。

2人の他には誰も居ない、クリスマスイヴの校舎裏。今ではとても大事な人になった橘先輩との出会いの場所で、私は今後、一生忘れないであろう大事な瞬間を迎えた。

 

あの日から、私と橘先輩は恋人同士になった。最初はお互いの関係の変化にぎこちなかったけれど、今では私の右隣には橘先輩が居て、私の右隣に橘先輩が居ること、ただそれだけで私にとって幸せと安心につながった。これからは、私はこの幸せを失うことのないよう、大事なことを忘れてしまうことのないよう、努力を続けていかなければならない。

だけど、その努力は辛くはない。それは橘先輩と二人で、私の大事な人達と皆で続ける努力だから。

パン、とスタートの合図の銃声が響き、私は飛び込み台を蹴って弾丸のように水の中へ。足の爪先から手の先まで意識を巡らせて、その意識を更に先へと延ばしていく。遙か先のゴールへ、そこからもっと先の大事な人達へ。迷うことをやめた私は、また水泳を楽しむことができるようになった。橘先輩をはじめとして、私の大事な沢山の人達に感謝して、私は泳ぎ続ける。私はもっともっと、速く泳げるようになる。

誰よりも早くゴールし、プールから上がった私は、観客席にいる大事な人達に、とびきりの笑顔で手を振った。橘先輩も、こっちを見て笑っている。

橘先輩、これからも私を見ていてください。

ふふっ、私も、みんな見てますよ。

 

(おわり)

つぶやくつぶやく

2010/05/18

勝手に小説化 アマガミ 七咲逢2

Filed under: 勝手に小説化アマガミ七咲逢,連載 — ksk @ 10:36 PM

(2010/05/24 一部修正・加筆)
(全体を印刷用にpdfファイル化したものをこちらにアップしてあります)

 考えてみれば、当然のことだ。

 私が普段関わる男性が橘先輩だけだからといって、橘先輩が普段関わる女性は私だけとは限らない。橘先輩は確かにちょっと変な人だけれど、でも接してみれば悪い人ではない。むしろ、真剣に話を聞いてくれる、明るいひと。美也ちゃんのお兄さん。他に関わる女性が居ない方が不自然だ。

 でも、私は自分の気持ちをどうしていいかわからなかった。朝見たあの人は橘先輩の恋人かもしれない、そう考えた時、いくら平静を保とうと思っても、心がかき乱されてしまう。橘先輩とはたかだか十数日前にあっただけなのに。馬鹿みたいだ、しっかりしろと自分を叱っても、もう一人の自分が辛いと訴える。自分でも驚くほどに、私は動揺していた。

 先生に当てられる事がなかったのが不幸中の幸いだったが、その日の授業は殆ど耳に入らなかった。一日中、朝見た光景を頭の中で繰り返し再生して、思考は行き止まり。放課後、重い足取りで部室に向かう。

 部活はさらに散々だった。いつもは心地よく感じるプールの水も、今日はまるで自分の身体を後ろに引っ張ろうとしているかのように思えた。身体が思うように動かない。手が何かを求めるように前へ前へ、足はもがくようにばたばたと水を蹴った。タイムは伸びないどころか、大幅に落ちている。頭の中にはまだ、今朝の楽しそうな橘先輩の姿が浮かんでいた。

 部活が終わり、部員の皆が帰った後の更衣室のベンチで沈んだ気持ちで濡れた身体を拭く私のもとへ、塚原先輩が近付いてきた。

「今日は上手くいかなかったみたいね。大丈夫、誰でも調子の悪い時はあるわ」

隣に座り、優しい声をかけてくれる塚原先輩。

「……塚原先輩」

 声を発したものの、その先に続ける言葉が見つからない。

「七咲はここまで、スランプ知らずだったものね」

「スランプ、ですか……」

 塚原先輩に言われて、そこではじめて私は、自分の現実を知った……いや、本当は知っていたけれど、目をそむけていた事実に向きあわされた。

「スランプは悪いものじゃない。誰でもスランプはある。身体の調子が悪い時、何か辛いことがあった時。私もそうだった」

「塚原先輩も、ですか……?」

 私が塚原先輩を見ると、先輩は優しい顔で頷いた。

「うん。でも、今は大丈夫。だから、七咲もまた、思ったように泳げるようになるわ」

 言って、先輩は私の頭にそっと手を乗せた。濡れた髪の毛越しでも伝わる暖かさと優しさ。涙がこぼれてしまいそうだった。

「何か、原因と感じるものはあるのかしら?私でよかったら、相談に乗るわ」

 原因、と言われて、また今朝の光景が頭の中に浮かんだ。恥ずかしさか、情けなさか、私は何も言いだせず、口を結んだまま、足元に視線を落としたまま。

「言いにくいことなら、無理に言わなくてもいいわ」

 しばらく黙ったままの私に、塚原先輩はそう言ってくれた。

「すみません……」

 私は謝ることしかできなかった。

「大丈夫、まだ校内選考も時間がある。焦らないでね」

「……ありがとうございます。大丈夫です」

 それは強がりに他ならなかったが、私の返事を聞いて、塚原先輩は小さく頷くと、着替えを済ませて部室から出て行った。私はそれからさらに十分ほど部室のベンチで過ごし、部室を後にした。

「あ、七咲ー」

 下足箱の所に来た時、背後から声をかけられて、私はふりむく。そこには鞄を提げた橘先輩がいつもの笑顔で立っていた。

「橘先輩……」

 橘先輩に会えた嬉しさと、朝の事の戸惑いとが同居して、それでもやっぱり会えたことが嬉しくて、私は少し笑顔になっていた。

「今帰り?」

 私の方に歩いてくる橘先輩。

「はい、先輩も帰るところですか?」

「うん、途中まで一緒に帰ろうか」

 そう言われて、私は思わず笑顔になる。

「はい、是非」

 私たちは並んで、自宅への道を歩いた。朝と違い、もう殆ど人が居ない夜の静かな帰り道。橘先輩と二人で歩ける事が嬉しい。嬉しいと思いながらも、私の頭の中では思考が空回っている。橘先輩、朝、女の人と親しそうでしたよね。橘先輩、タイムが伸びないんです。そんなこと、話しても仕方がないってわかっているのに。

「そういえば……七咲は、小学校はどこだったんだ?」

 突然、橘先輩が聞いてきた。

「あ、輝日南小学校です」

 輝日南小学校は私の自宅から歩いて十数分の距離にある小学校で、この辺りに住んでいる子供の多くは私立学校にでも行かない限り、輝日南小学校か、もしくはもう一校の公立学校に通う。

「あれ?じゃあ僕と同じじゃないか。ひょっとすると、小学校でも七咲と出会っていたかもしれないんだな。」

 感慨深そうに言う先輩。

「ふふっ、そうなりますね」

 もし小さい頃に橘先輩と出会っていたら、私達の関係はどうなっていたんだろう。

「小学校、懐かしいなぁ。滑り台でよく遊んだっけ」

 滑り台、と先輩が言ったことで、私の子供の頃の記憶も呼び起こされる。

「あ、それなら私も遊びました」

共通点があって、ちょっと嬉しくなった。

「確かイカの形をした変な滑り台だったよな」

 その時、先輩の言葉に私は妙な違和感を覚えた。

「え?あれはタコの滑り台だった気がしますけど……」

 一応、記憶を辿ってみる。でも、私には確信があった。あの滑り台は確かにタコの形をしていた。

「違うよ、あれはどう見てもイカだよ」

 足を止めて反論する橘先輩。ちょっとむきになっていてかわいい。

「いえ、残念ながらタコなんです」

「そんなはずないって」

 年下なのに落ちついている私と、年上なのに落ちついていない橘先輩。

「間違いありません」

 きっぱりと私が言うと、橘先輩は黙って考え込んでしまった。

「……なんだか、納得がいってないみたいですね」

 考え込んでいる橘先輩の横顔を覗き込みながら聞く。

「だって、あれは……」

「では、今度確かめに、小学校に行ってみますか?」

 軽く言ったが、私は内心ドキドキしていた。行き先が出身の小学校とはいえ、初めて先輩と校外に出るお誘いを、私はしてるんだ。

「うん、じゃあ、今度の日曜の夜なんかどうだ?」

 私の緊張とは裏腹に、ごくあっさりと橘先輩は私の誘いに乗ってくれた。

「そうですね、構いませんよ」

 応えながら、心が弾む。

「よし!後で謝っても遅いからな!?」

 子供のように言う先輩。

「謝るのは先輩だと思いますよ」

 私も挑発的に返す。

「日曜が楽しみだな」

「そうですね」

 滑り台がイカかタコかはっきりする事が楽しみな先輩と、日曜日に橘先輩と一緒にいられることそのものが楽しみだった私と、二人の「楽しみ」の中身は違っていたかもしれないけれど。

「じゃあ、またな、七咲」

「はい、それでは」

 そういって私たちはそれぞれの帰路へ。さっきまで沈んでいた心は、今では少し、晴れていた。

「日曜、楽しみだな。ふふっ」

 橘先輩は、タコの滑り台を見た時、どんな顔をするだろう……きっと、子供みたいに驚くんだ。その想像の橘先輩の姿が面白くて、私はまた笑顔になっていた。

 

 日曜日。部活もなく、日中は自宅で漫画を読んだり、弟と遊んだりしながら過ごしたけれど、夜に橘先輩と会うことへの期待に何をしても上の空だった。結局、私は少し早めに家を出て、散歩をしてから小学校に向かうことにした。

 少しジョギング気味に、町内を高台の公園の方へ。ダウンジャケットが少し重いけど、一日部屋の中で過ごして固まっていた関節達が、少しずつスムーズに動くようになるのが気持ちいい。高台の公園まで走ってだいぶ身体が温まったので、ジャケットを脱いで一休み。乾燥した空気が、少し汗ばんだ首筋を冷やしてくれた。

 そのまま、沈みゆく夕陽をぼーっと眺め、物思いにふけっていた。いつ、私はこのスランプから抜け出せるのだろうか。私はそんなに弱い人間だったんだろうか。このまま、校内選考までスランプから抜け出せなかったら……そこまで考えて、風が吹いたわけでもないのに、私は身震いした。

 実際、身体が冷えてきたことを感じて、もう一度ジャケットを着込む。公園の方を見ると、小さな男の子と女の子が仲良く遊んでいた。無邪気に追いかけっこをする2人。まだお互いを異性として意識しない、幼い子供たち。あの子たちも、いつしか相手を異性と意識するようになり、お互いの距離を離すのだろうか。それとも、恋人同士になったりするのかな。いつ頃、人はそうやって、異性を自分と違うものとして意識し始めるんだろう。……たしか、保健体育の授業でそんなことを習ったっけ。

「先輩も、今みたいに変態じゃない、かわいい子供だった頃があったのかなぁ。ふふっ」

 小さいころの先輩を想像して、私は一人笑い。それからしばらく、私は公園の子供たちを眺めていた。

 先輩との約束の時間が近付いて、私は小学校へ向かった。よく通った通学路は、特に物珍しいということもなかったけれど、日が落ちてから通るとなんだか寂しい雰囲気。私はちょっと心細くなって、少し早足で学校まで向かった。

 小学校には約束の五分頃前についたけれど、橘先輩はもう校門の前で待っていた。ジャケットにマフラーを巻いた橘先輩。制服じゃない橘先輩をみるのはなんだか新鮮な気分。

「橘先輩、すみません、お待たせして」

小走りに橘先輩のところへ駆け寄る。

「おわ、な、七咲か、おどかすなよ」

びくり、とオーバーリアクションで私に気付く橘先輩。

「別にそんなつもりじゃ……先輩って結構憶病なんですね」

 さっそく、橘先輩をからかってみる。

「そんな事は……」

「ない、と?」

 意地悪な顔で聞く私。

「う、うん……」

 自信なさげに、橘先輩が頷く。

「ふふっ、では、そういう事にしておきます」

「……七咲って、結構意地が悪いよな」

 ちょっと悔しそうな橘先輩。

「今頃気づいたんですか?」

 にっこり笑って言う私に、先輩は肩を竦める。

「ふふっ。じゃあ、さっそく入りましょうか」

「うん、そうだね」

 校庭の中へ入り、遊具が集まっている一角へ並んで歩く。もう日の暮れた校庭では遊ぶ人もなく、私たち二人の影だけが、電灯の光を受けて長く伸びていた。

「久しぶりに小学校のグラウンドに来たけど、こうして見ると……意外と小さいんだね」

 校舎の方を見ながら、先輩が呟く。

「あ、橘先輩もそう思いましたか?」

「七咲も?」

「これって……」

「僕たちが成長したから、かな」

 そう言って、しみじみと見渡す先輩。私も、ぐるりと校庭を見渡してみる。小学生の頃、あんなに広く感じた校庭は、まるで校庭の方が小さくなったかのように不思議と狭く感じた。自分が意識しないうちに、自分が持っている感覚が変わってしまった、なんだか寂しいような、怖いような感覚。このまま自分があと何年か歳を取ったら、私が今橘先輩に感じている気持ちも、この小学校のグラウンドに対する感覚みたいに小さくなってしまうのだろうか?そんな事を考えて、私は少し不安になった。

「滑り台が見えてきたね。さっそく確認しに行こうか?」

「そうですね」

 いよいよ、橘先輩が驚く顔を見ることができる。ちょっと、わくわくしてきた。

 実は、私は小学校の頃に、ちょうど橘先輩と議論したような「イカかタコか」の話でクラスメートと争った事があった。校庭にある、滑り台やジャングルジムのような複数の遊具を兼ねた大きな像。クラス中の大激論の末、ついには学級会まで開いて、滑り台の足が八本であること、頭の形が丸いこと、輝日南小学校に赴任して長い先生から「昔、この滑り台は赤く塗られていたが、塗料が落ちてしまった」との証言を得たことから、この滑り台がタコであることを確認したのだった。そこまでした記憶は、さすがに小学生の頃と言っても、はっきりと私の中に残っていた。

 橘先輩の驚く顔を見逃さないようにしなきゃ、と、思っていた矢先、私は目の前の光景に、思わず口が開いてしまった。

「……ほら、イカだろ?」

 私は目を疑った。赤色の落ちた滑り台は、改めて白い色が塗られ、さらに丸かったはずの頭の部分は、あろうことか三角の新しい頭に入れ替わっていた。

「そ、そんな……私が通ってた頃は、確かにタコだったんです!!」

 驚く私とは逆に、橘先輩はきょとんとした顔をしている。

「そうだっけ?ずっとこうだったような気がするけど……」

 橘先輩を放って、私は滑り台に駆け寄り足の数を確認する。1、2……足は確かに8本あった。

「ほら!先輩、みて下さい、足が8本です!これはタコだったんですよ!」

「ははは七咲、足が8本のイカだって居るんだぞ!漫画に書いてあったから間違いない!」

 勝ち誇ったように先輩は笑っていて、私は妙に悔しくなった。

「だ、だって……ほら、頭のところだって妙に新しいじゃないですか!ここだけ取り換えたんですよ!色が落ちたからって、塗り変えるんじゃなくてイカに変えるなんて……」

 必死に弁解する私。

「ふふふ、七咲、確かに七咲の記憶は正しかったかもしれないが、昔はどうあれこれはどうみてもイカにしか見えない、違うかな?」

「う、それは……」

 痛いところを突かれて、私は反論できなかった。

「じゃあ、この勝負は僕の勝ちだ!」

 子供のように嬉しがる橘先輩。

「なんだか腑に落ちませんが……わかりました。私の負け、ですね」

 私は反論することを諦めた。橘先輩の言う通り、いくら私の記憶が正しくても、タコだったものをイカに変えられてしまっては、どうすることもできない。想像の範疇外だ。

「ははっ」

「何ですか?」

「いや、七咲ってなんだかいつもクールで、スマートにしてるからさ。今日みたいに取り乱してるところを見たことがなかったから、驚く顔がみれたらなんだか嬉しくてさ」

 嫌味ではなく、本当にちょっと嬉しそうに、橘先輩は言った。

「そんなところを見て笑うなんて、ひどいですよ、橘先輩」

 強がってみたものの、スマートではないと言われ、水泳の事を言われているような気がして、本当は少し動揺していた。

「確かに、実際はタコだったのかもしれないね。ラッキーだったな、僕は」

 言いながら、橘先輩はなつかしそうに滑り台に触れる。きっと、橘先輩が小学生だった頃は、橘先輩ももっと低い位置からこの滑り台を見上げていたんだろう。

「それでも勝ちは勝ち、ですよ先輩。もっと喜んでください」

「そうだな。えっと、勝者へのご褒美はなんだっけ?」

「そんなの、決めてないから何もないですよ、……?」

 言い合っているところで、遠くから何か唸り声のような音が聞こえ、私はそちらの方を見た。校庭の真ん中、暗闇の中で何かがこちらの方に、グルルル……と、敵意をむき出しにした声を挙げている。

「の、野良犬か?」

言いながら、私をかばうようにして前に出てくれる橘先輩。

「先輩……」

「け、結構大きいな、しかも興奮してるみたいだ……」

 橘先輩の声がうわずっている。確かに、目の前で唸っている犬は大型犬とまでは言わずとも、それなりに体が大きく、今にも飛びかかってきそうな興奮状態だった。私も恐怖を感じて、わずかに足が震えだしていた。

「七咲は滑り台の上に逃げてろ!その間になんとかするから!」

「え、あ、はいっ!」

 言われるがままに、私は滑り台の上へと駆け上がる。犬が吠える声が聞こえ、私は恐怖に身体を小さくして、隠すように頭を引っ込めた。

「くそっ!お前はこっちだっ!!」

 先輩の叫ぶ声、それから人が駆けだす足音を聞いて、私はちょっとだけ顔をあげてみる。

「先輩……」

先輩は野良犬に追いかけられて、校庭を走りまわっていた。その姿は、他の人からみれば、犬から逃げる情けない姿かもしれなかったが、私にはとても勇ましく、恰好よく映った。

「うわっ!!」

 追いつかれ、野良犬に飛びかかられる先輩。怖くて見ていられなくて、私は思わず目をつむる。それから何度かガサガサと砂をするような乱暴な音がして、程なくして犬の悲鳴が聞こえ、そのまま遠ざかって行った。

「先輩……?」

 もう一度目を開いてみると、そこにはもう野良犬の姿はなかった。

「七咲、もう出てきても大丈夫だよ」

 砂だらけの先輩が、立ち上がりながら言った。私は滑り台から降りようと立ちあがろうとして……できなかった。腰が抜けたのか、下半身に力が入らない。

「あの……先輩」

 私の言葉に一瞬不思議そうにこちらを見て、それから先輩は私が腰を抜かしたのを判ってくれたみたいだった。

「ちょっと待ってな、いま行くから」

 そう言って、先輩は身体の砂を払うと、助走をつけて滑り台を逆から一気に駆け上がって、私のところへ来てくれた。

「お待たせ、もう大丈夫だからな」

 にっこり笑う橘先輩。その頬には、野良犬を追い払ったときのものであろう砂がついていた。その先輩の姿に、私は大きな安心をおぼえ……次の瞬間には、殆ど無意識に私は先輩に抱きついていた。

「先輩っ!」

「え、七咲!?」

 戸惑ったような声を挙げる先輩。私も自分の行動に驚いていた。

「すみません……」

 私の声はまだ震えている。

「いや……それより大丈夫だったか?」

 先輩は優しく、私の身体を支えてくれた。それから、空いている方の手で優しく私の頭を撫でてくれる。

「はい、先輩のおかげです……」

「七咲は犬が苦手なの?」

 先輩の声がいつもより近くて、私はドキドキした。

「そういうわけではないんですけれど……急にだったから、驚いてしまって」

「そっか」

 しばらくそのまま、私は先輩に支えられていた。暖かい先輩の胸。力強い鼓動が聞こえる。思ったよりも男らしい、がっちりした腕。優しい掌。先輩の匂い。しばらくして私の震えは止まり、血の気が引いたようだった下半身にも、感覚が戻ってきた。

「あの、先輩、すみません……もう大丈夫です」

「えっ?あ、ごめん!」

 驚いたように、先輩は私から身体を離した。

「いえ、抱きついたのはこっちですから」

それから、二人とも無言で滑り台を降りた。身体にはまだ、先輩のぬくもりが残っているような気がした。所在なさげに下がる先輩の手。さっき橘先輩に抱きついたという事実の実感が今頃になってやってきて、私は頬が紅潮するのを感じていた。なんとなく気まずくて、何か言わなきゃと思っても、言葉が出てこない。

「あのさ」

「あの」

 同時に声を出して、二人とも固まってしまう。そのまま、数秒。

「あの、橘先輩」

「な、何?」

「えっと……そろそろ……戻りましょうか」

 やっと口から出た言葉は、私が本当に口に出したかったものとは全然違う言葉だった。

 

 二人で学校を出て、自宅の方へと歩く。やっぱり、何も話すことはできなくて、気まずいまま。橘先輩は、さっき私が抱きついた時、どう思ったんだろう。迷惑だって思っただろうか。それとも、少しでも嬉しいと思ってくれたりしたんだろうか。そんなことを考えながら、私は橘先輩と並んで歩いた。橘先輩は時々、困ったようにこちらを見たりしながら、それでも黙って歩いた。

 歩きながら、私は考える。塚原先輩が言っていたスランプの原因。私のスランプの原因は、きっと私の先輩に対する気持ちだ。はっきりしない自分の心。自分の心が定まらないから、先輩の言葉に一喜一憂してしまう。心が揺れるから、身体がうまく動かない。私は、私の心を解決しなきゃいけないんだ。そうだとしたら。

「先輩、私、ここでいいですよ」

 私は自宅まで十数メートルのところで足を止める。橘先輩は、何も話さないのに、私を自宅の近くまで送ってきてくれていた。

「今日はありがとうございました」

 先輩に向き直り、私は頭を下げる。

「いや、いいよ。勝負に勝っただけじゃなく、七咲のかわいいところが見れたし」

 そう言われて、私は思わず苦笑した。かわいい、と言われて、むずがゆいような、ちょっと悔しいような、不思議な気持ち。

「ふふっ、かっこわるいところみられてしまいました。さっきの先輩、すごく格好よかった。憶病なんて言って、すいませんでした」

「いや、構わないよ、あの時は実際、びっくりしたし」

 恥ずかしそうにする橘先輩。

「あの……先輩?」

「何?」

 ひと呼吸、おいてから。

「今度、水泳の大事な選抜があるんです。校内の代表を決める選抜。私、頑張りますから」

「うん、七咲ならきっと、代表になれるよ」

 いつもとは違う、落ちついた声で橘先輩は励ましてくれた。

「きっと、代表になって、先輩に報告します。それじゃ、おやすみなさいっ!」

 先輩が次の言葉を続ける前に、私は恥ずかしくてたまらなくなり、挨拶だけして家へと駆けた。後ろ手にドアを閉めて、深呼吸。部屋の暖かい空気のせいか、気分が高揚しているせいか、私は自分の頬が紅潮するのを感じた。

 

 それから数日。12月も10日を周り、校内選抜の選考の日が近づいてきた。私の調子は少し上向いてきていた。橘先輩に宣言したことが良かったのか、自分のベストタイムに近づく事ができ、塚原先輩も安心した顔を見せてくれた。

 そして、選抜の当日。コンディションは決して最高とは言えなかったが、悪くもなかった。タイムはベストではないものの、望みがないわけではなかった。一年生から三年生まで、学年で優劣なく実力だけで決まる。

 私は朝から落ちつかない気分だった。だめだと判っていても、授業には集中できない。ほとんど頭に入らないまま、お昼休みを迎えた。

「逢ちゃん、今日水泳部の選考なんだよね?」

 クラスメートの友人と学食の醤油ラーメンを食べているところに、美也ちゃんがやってきた。

「うん」

「『日々の積み重ねが大事なんだ』ってお父さんがよく言ってるんだ。逢ちゃんは毎日頑張ってるんだし、きっと大丈夫だよ!」

 美也ちゃんは、わざわざ低い声を出してお父さんのモノマネをした。

「うん、美也ちゃん、ありがとう」

「それとね、逢ちゃん」

「なに?」

 一歩寄る美也ちゃん。

「さいきん、お兄ちゃんがごきげんでねー。この前の日曜も夜に帰って来た時、だらしなーい顔でさー。何かいいことあったのかなー?」

 そういう美也ちゃんの顔は、全て知っていて、その上で私をからかっている顔だった。一気に恥ずかしさが襲ってくる。

「にししし、頑張ってね、逢ちゃん!」

 何に対して「頑張る」のか、言わないまま美也ちゃんは言ってしまった。恥ずかしくて、穴があったら入りたい。いっそ私がこの醤油ラーメンになってしまえば人目を逃れられるだろうか、などとラーメンを見つめたまま妙な事を考えている横で、一緒にお昼を食べていたクラスメートが不思議そうにこちらを見ていた。

 

 お昼を食べて、クラスメートの友人と別れ、私は橘先輩の教室へと向かった。美也ちゃんに言われたからではないけれど、選考の前に橘先輩に元気をもらいたいと思った。気持ちも少し弾んで、軽い足取りで二年生のフロアへ。角を曲がれば橘先輩のクラスというところまできたとき、角の向こうから橘先輩の大きな声が聞こえてきた。

「う、うわあああああっっ!!?な、なんだ!?」

「あははっ!いいよ、いいよ純一、その反応!」

 女の人の元気な声が続けて聞こえてくる。角からちょこっと顔を出す。

「あ……」

……私は、後悔した。

 黒髪の、パーマの女性が橘先輩に抱きついていた。抱きついて、橘先輩の耳たぶにかじりついていた。その女性はとてもうれしそうで、それを近くで見てる梅原先輩も大笑いしていて。そのもう少し遠くで、まじめそうなストレートの黒髪の女の人が、二人の姿を見て頬を膨らませている。とてもその場には入っていけなくて、私は逃げるようにその場を後にする。階段の踊り場まで戻って、私は立ち止まった。

「今の人……橘先輩の事、純一、って」

 名前で呼ぶくらい、親しい女の人?この前の人とは違う人だった。

「……先輩」

 心の中で、何かが割れちゃったような感覚がした。続いて、耳の辺りから血の気が引いていくような、怖いような、そんな感覚を味わって、私は混乱したまま、教室へ戻った。さっきまでの気持ちも、美也ちゃんの応援の言葉も、全部どこかに吹き飛んでしまっていた。

 

 選考には落ちた。

 これまで従順だった水が抵抗してくるみたいに、身体が、心が悲鳴をあげてるみたいに、全部が哀しいくらいにばらばらで、私はベストより大幅にタイムを落としてゴールした。ゴールしても、水から上がるのが嫌だった。頑張ってきたのに、何一つ、惜しいという結果すら残せないのが悔しかった。部活の仲間たちは慰めの声をかけてくれたが、申し訳ないけれど、耳には入っていなかった。

 部活が終わり、プールサイドでうなだれる私に、塚原先輩がタオルをかけてくれた。ありがとうございますの言葉も出せず、私はただ俯いていた。

「今日は残念だったわね」

「塚原先輩……」

「一年生の中ではいいタイムだったんだから。来年はきっと通れるわ」

「……」

 塚原先輩に優しい言葉をかけてもらっているのに、心の中には焦燥が募る。

「七咲は本当によく頑張ってるもの」

「……先輩、私」

「うん?」

 たまらなくなって、私は先輩の言葉を遮るように言った。

「背泳で、来週の選考に出ようと思うんです」

 私の言葉に、先輩は少しの間、何も言わずに私を見ていた。

「……私、あなたを叱らなきゃいけないと思う」

 少し強い調子の言葉に、私は思わず塚原先輩をみた。先輩は私をじっと見ている。

「それはきっと、七咲にとって根本的な解決にならないわ。それでもし通ったとしても」

「それでも」

 塚原先輩の言葉を途中で遮って。

「私から水泳を取ったら、何もないんです」

 塚原先輩みたいに気遣いができるわけじゃない。美也ちゃんみたいに愛想があるわけじゃない。中多さんや橘先輩の周りにいる女性達みたいに魅力的な容姿でもない。行動力があるわけでもない。橘先輩みたいに、まぶしい魅力があるわけじゃない。私には、何もない。

「だから、背泳の選考に出させて下さい」

 先輩は私を確かめるように、強い目でじっとわたしを見た。

「……判ったわ。それなら、私は何もいわない。あなたの思う通りにやってみなさい」

 捨てるのではなく、私を受け入れてくれる声で、塚原先輩は静かにそういうと、私から離れて行った。私はもう数分、プールサイドで水を見つめて、プールを後にした。

 校門まで来た時、私の視界の端に橘先輩の姿が見えた。次の瞬間、私は逃げ出していた。途中で誰かにぶつかったような気がしたけれど、構わずに坂を駆け下りる。転びそうになりながら、でも速度を落とさないように走り続けた。

 橘先輩に、選考に通った報告をしたかったのに。頑張ったねって言ってほしかったのに。どうしてこうなってしまったんだろう。きっと、私が弱いからだ。橘先輩とのことに一喜一憂したりして。冷静な私がどこかに行ってしまった。私は、私を取り戻さなきゃだめだ。

「おーーーーい、七咲!」

 遠くから聞こえる、よく知った声。姿を見て追いかけてきたのか、橘先輩が私に向かって走ってきていた。どきりとして、一旦先輩から目線を離し、深呼吸。私は、面倒見のいいクールな後輩、七咲逢。そう自分に言い聞かせる。

「先輩……」

「よかった、追い、つけた」

 肩で息をしている橘先輩。橘先輩の額はじっとりと汗ばんでいた。

「あの……どうして、追いかけてきたんです?」

 何もなかったかのように聞く私。

「どうしたって……七咲こそどうしたんだよ!突然走りだしたりして……あんなふうに走って帰るなんて、何かあったんじゃないのか?」

「……」

 視線を外して、消えかけた冷静な私を準備しなおす。

「何も……ありませんよ。ただ、自由形の選考に落ちただけです」

 心の端が痛んだような気がしたのを、私は無視した。

「えっ!ど、どうして……」

「タイムが落ちたからに決まってるじゃないですか」

「タイムが……」

 困った顔の橘先輩。橘先輩がそんな顔をすること、ないのに。

「先輩……そんな顔しないでください」

 橘先輩の顔を見ているのが辛いからじゃなくて、何も辛いことなんかじゃないからだ、と私自身に言い聞かせる。

「大丈夫ですよ、私、背泳に転向しますから。来週選考の背泳の枠なら人数が少ないし、まだ間に合うかもしれないんです」

「でも……そんなに簡単に種目を変えられるものなのか?」

 心配そうに聞く橘先輩。

「……頑張ります、としか言えません」

「そうか……」

「先輩、だから私、もっと水泳に集中しようと思うんです。それで……」

 次の言葉に、私は一瞬詰まった。

「それで?」

「選考が終わるまで、その、私の所には来ないでもらえませんか」

 橘先輩をまっすぐみることはできなかったけれど。

 橘先輩が、少し悲しそうな顔をしているのが、私の視界の斜め上の方で、見えた。

 しばらく先輩は黙って、辛そうな顔をして、ようやく口を開いた。

「わかった。いい結果が出ることを楽しみにしてるよ」

「ありがとうございます。私、頑張りますから」

 精一杯の笑顔で答えた。

「うん、あまり無理はするなよ、七咲。ちゃんと休む時は休まないとだめだぞ」

「はい、わかってます」

 はっきり答えたが、先輩は迷ったような顔をしていた。

「先輩、どうしたんですか?」

「いや……なんでもないよ」

 そう答えてはくれたが、やはりその顔は、どこかに迷いがあった。でも、私はそれも、気付かないふりをする。

「そう……ですか。えっと、では私はそろそろ失礼します」

「うん、またな」

 橘先輩の返事を聞いて、私は未練を断ち切るように走った。自宅近くまで来てから、私はもと来た道を振りかえる。先輩の姿はない。これでいいんだ。背泳で選考に通って、橘先輩に報告すればいい。

 もしまた落ちたら、と一瞬考え、深い深い闇を感じて、私はその考えを頭から切り離した。明日からもっと、厳しい練習をしなくちゃ。そう決意して、自宅へと戻った。

(続く)

つぶやくつぶやく

2010/05/14

勝手に小説化 アマガミ 七咲逢1

Filed under: 勝手に小説化アマガミ七咲逢,連載 — ksk @ 7:26 PM

(2010/05/24 一部修正・加筆)
(全体を印刷用にpdfファイル化したものをこちらにアップしてあります)

指先、掌、腕、肩、胸、腰、腿、足、爪先。全ての部品を一つの意識のもとに、私の身体は従順に命令に従う。耳のすぐ近く、頭の後ろのあたりで、流れていく水の音だけが聞こえてる。心地よい音色。指の先に壁を感じて、私の身体は毬のようにくるんと回転して、そのまま軽く、でも強く、壁を蹴る。水の抵抗が最小になるように、身体は最も効率的な姿へ。伸びろ、もっと伸びろ。そしてまた、意識は指先から爪先へ。水を掻く、反対の手が伸びる、掻く、伸びる……壁が近付いて、くるん、蹴る、伸びる。掻く、伸びる、掻く、伸びる――

数時間、同じことを何度も何度も繰り返し、身体がようやく燃料を失って休止を訴えかける頃、私はプールから上がる。とたんに重くなる自分の体重。そうだ、忘れてた、地上は身体が重いんだ。

激しく酸素を要求する肺も、空気に触れて熱を帯びたような皮膚も、全てが一斉に私に抗議を始めた。私はスイムキャップとゴーグルを外して、たっぷり水を含んだ髪を乱暴にかきあげた。頭を縛っていたキャップのゴムから解放された感じ。血の巡りがよくなったのか、ちょっとくらくらする。ああ、気持ちいい。

「はーい今日はしゅーりょー!ミーティングするよー!」

 私が水から上がったのとは反対側のプールサイドで、顧問がパンパンと手をはたきながら叫ぶ。室内プールに響く顧問の声は何重にもエコーがかかっていた。私はキャップとゴーグルを水着の肩に挟んで、集まりかけている部員たちのところへ転ばないように早歩き。

 練習後、部員を集めてのミーティングの内容はいつも通り。水泳の公式大会出場者を決める校内選考まであと何日とか、今日のプールサイド掃除当番は男子とか、そんな話が続いて、いつもの通りに礼をして解散。私はそれを一見真剣に聞いているかのような表情で聞き流して、顧問の部活動の終了を告げる短い笛の合図と一緒に、目当ての先輩のところへ駆け寄った。

 3年生で水泳部部長の塚原響先輩。他の先輩からよく愛想が悪いと言われる私が心から尊敬し、丁寧に接する数少ない先輩。塚原先輩は一見物静かで怖いように見えるが、実は面倒見のいい落ちついた姉のような存在で、私を含めた部員みんなの事をいつも気にかけてくれている。私は度々塚原先輩に自分のフォームや練習メニューの相談をしていた。

「塚原先輩、おつかれさまです」

 私が駆け寄ると、ストレッチをしていた塚原先輩は優しく微笑んで迎えてくれた。キャップをとり、後ろで短くまとめた髪を解いて、軽く首を振る。

「おつかれさま」

 少し低めの、でも暖かい塚原先輩の声。

「先輩、明日からのメニューについて相談したいことが……」

 そのまま、私は十数分ほど、塚原先輩とプールサイドで話しこむ。自分で考えたメニューを塚原先輩に相談し、率直な意見を聞く。私のフォームを見て感じたことを教えてもらう。塚原先輩はいつもの通り、優しく私にアドバイスしてくれた。

 

「先輩、ありがとうございました」

 言いながら、ぺこり、と頭を下げる。そういえば、私がこうして頭を下げているのって、塚原先輩だけかもしれない。先生にもあまりやった覚えはない。そのくらい、塚原先輩にはお世話になっていると、私は感じているんだと思う。

「どういたしまして。七咲は最近頑張ってるし、実際にタイムも伸びてるからね。頑張れば代表も狙えると思うよ。ただこなすだけじゃなくて、意識してメニューに取り組むことを忘れないで」

 そこまで言って、塚原先輩は思い出したように「そうだ」と言い、続けた。

「そういえば七咲、さっきなんだか、男子と揉めてた?」

「はい?」

 突然話題が変わったことに戸惑いながら、私は自分の記憶を辿ってみた。朝、登校して、授業を受けて、休み時間を終え、4限の授業のあとお昼休みに友達とお弁当を食べて、午後の眠たい歴史の授業を受けて、それから放課後……そこまで思い出して、一つの事に思い当たった。

「ああ、校舎裏の……」

「うん」

 塚原先輩に聞かれて、私はちょっと困った。もめた、というほどではないにしろ、説明がしづらいことだった。話の内容という意味でも、それから……その『男子』についても。

 

 時間は遡って、放課すぐのこと。いつもの通りに授業が終わって、私は荷物をまとめて部室へ向かう。水泳部の部室は、校舎本棟を出て体育館の裏側、プールの隣にある。本棟から渡り廊下を使って体育館の前を通るのが正しい道だが、放課後は部活に向かう他の生徒が多くて歩きづらいので、ちょっと裏道を使って、非常階段から部室へ。それが私のいつものコースで、人が少なくて静かなだけでなく、時々校内をうろついている猫にも出会えるので、私のお気に入りの道だった。

 校舎の裏側の非常階段を降りている時、下の方でガサゴソと音が聞こえたような気がした。猫にしては存在感の大きな物音に、私は階段から校舎の影の辺りをちょっと覗いて見て……驚いた。何やら怪しげな影、黒い塊が、地面の近くでもぞもぞ動いていたのだ。奇妙な光景にびく、と心臓が跳ねたが、落ちついてよく目を凝らして見ると、黒い塊だと思ったそれはどうもうちの学校の男子制服のズボンらしかった。非常階段の出口の辺りで、男子生徒があおむけになったり四つん這いになったりしながら、妙な動きをしている。正直に言って、気持ち悪い。どこかの部族とかの、もしくは彼オリジナルな前衛的な踊りの練習だろうか。というか、そこにいられると私は階段を降りられないのだけど。

 十数秒ほど待っていてみたのだが、その男子は一向にその場から離れる気配がなかった。何かを探しているのか、姿勢を低くしたままそのあたりを探っている。私は小さく溜息をついて、そのまま非常階段を降りた。

「あの……」

「あぇっ!?」

 予想以上の大きなリアクションに、私は口をつぐんだ。話しかけられた男子は目をぱちくりして、視線を左右。……上下。その低い姿勢で上下されると、私のスカートの中身が見えちゃうんだけど。

「っ!…黒っ!」

 見てた。でも、私は特に自分のスカートを押さえて隠したりはしなかった。

「何、してるんですか」

 そりゃ、覗いてるんだろうけど、一応聞いてみることにした。男子は明らかに動揺したように口ごもる。

「いや、決して階段の下から見ようとかそういうんじゃなくて……」

 と言いながらも、彼の目線は大体3秒に1回くらい、下に沈む。自制心と戦っているのか、それとも既に負けているからこうなっているのか、ともかく彼の言葉には説得力が毛ほどもなかった。

「覗きとか、そういうことですか」

 威圧的に言う私。なるほど、非常階段は校内の階段と違って鉄製の簡素なつくりになっている。上手く場所を定めればスカートの中身を覗きやすいのかもしれない。それにしては、ここは私を除けば女子がそう都合よく通るような場所ではないし、覗き行為に励もうとする彼の危機管理は破滅的ではあったが。

「違うって、僕は猫を探して」

「猫?」

「うん、だから黒、あっ」

 失敗に気付いたように気まずそうな顔をすると同時に、視線がまたちらりと私のスカートの中へ。言い訳をするならせめて欲望くらいは抑えておいてほしい。思わずため息が出た。

「別にいいですよ。……見られた所で私、何とも思いませんから」

 それは、特に嘘でも強がりでもなく、私の本心だった。どうして、男の人はこんなものを見たがるんだろう。

「何ともっ……!じゃなくて、誤解なんだってば!」

 彼は本来押しとどめておくべき心の声が全部出てしまう病気なのだろうか。しかし、彼の本音が出てしまったその後に弁解を挟んだのでは、彼の印象は悪くなるばかりだった。

「だったら、どうしていつまでも四つん這いのままでいるんですか」

「え、あ……」

 彼は私の指摘を受けてようやく自分の姿勢を認識したようで、ごめん、と言いながら立ちあがった。それから、照れたように頭を掻く。

私は男子が苦手だった。いつも下品なことしか考えていない。クラスの男子も、部活の男子もそう。暇があれば所構わず、すぐその旺盛な性欲を隠すことなくいかんなく発揮してる。普段から部活で水着姿を男子に見られている私は、いつの間にか男子を自分の意識の外側に置く術を身につけたようで、特別自分の姿を見られる事に抵抗を感じるでもなかった。しかしさすがに変態極まりないこの初めて出会った男子に、私は隠すことなく盛大に侮蔑の目を向けた。というか、はじめから隠そうという気がなかった。

「はは、そういえばもうこんな時間なんだな……じゃ、僕はこれで」

 少しの対峙の後、そういって彼は逃げるようにその場を去った。私は彼が視界から消えてからもう一度、大きな大きな溜息をついた。

 

 塚原先輩の前で、私はうーん、と小さく唸ってしまった。あれはなんと説明すべきか。塚原先輩は不思議そうに私を見ていた。

「ええと……なんでもないです。知らない男子が道を塞いでいたもので、声をかけたら相手が驚いただけで……」

 と、いう説明しかできなかった。覗かれた、というと話がややこしくなりそうだったし、あの「見知らぬ男子が妙な動きをしている」という状況を事細かに説明するのはちょっと難しい。それに、間違った事は言っていないはず。

「たぶん、もう関わることはないでしょうから、大丈夫です」

 きっぱりと言う私に、ふーん、と塚原先輩は曖昧な返事をする。

「まぁ、あなたは大丈夫でしょうね」

 塚原先輩の意味深な物言いに、私は小首を傾げた。それに気づいて塚原先輩は笑って小さく手を振った。

「ああ、クラスの友人に男に縁がありすぎる子がいてね……よく色んな事に巻き込まれたり、本人も首を突っ込んだりするから、ちょっと思い出しちゃっただけ。ごめんね」

 友人、と塚原先輩は表現したが、私はその人を知っている。塚原先輩と同じ3年生の森島先輩。校内でも有名な人気者で、とびきりの美人。月に二桁の愛の告白を受けるという伝説の女子高生。超がつくくらいのお嬢様らしい。どのくらい有名かは、こと他人の人間関係には疎い私でも森島先輩についてここまで噂を知っている、ということで理解してもらえると思う。

「今日も見知らぬ男子が美味しそうにラーメンを食べる姿に感心して一方的にから揚げを差し入れたり、にぎやかなのは退屈しないんだけどね」

 言いながら苦笑する塚原先輩は、森島先輩に対して迷惑しているでもなく、むしろ少し楽しそうだった。きっと、塚原先輩の事だから、森島先輩に振り回されつつも、いい友人として力になっているんだろう。私は森島先輩の事はしらないけれど、少しほほえましく思った。

「ごめんね、余計な話になってしまって。もう上がりましょう」

「はい、こちらこそありがとうございました」

 そうして、私と塚原先輩はプールを後にした。

 

 帰り道。冬を間近に控えた空はもう暗く、校庭は落葉の終わった木々が寒々しい。私は制服の上に着ているジャケットの襟を立てて、足早に学校を後にした。夜の静かな通学路を歩きながら物思いにふけるのが、私のお気に入りの時間だった。しかし今日思い出せたのは変な動きをする男子に、ラーメンにから揚げを差し入れたという森島先輩。とかく変な人のいる学校だと思う。でも、きっと関わることはないか。私は頭を切り替えて、明日の練習メニューを考えながら、自宅への道を歩いた。

 

 翌日。いつものように放課後、いつものルートで部室に向かう。非常階段のところまで来て、昨日の事を思い出し、一応、階下をうかがった。誰も居ないみたいだった。

 私が鉄製の階段を降りるカンカンという靴音に混じって、にぁ、という猫の鳴き声が聞こえ、私は足をとめた。小さな黒猫が、無警戒な目でこちらをじっと見ている。私は自分の腕時計をちらっと見る。まだ部活の開始時間までには余裕があった。私は地面にしゃがみこみ、猫を手招きする。

「おいでおいで。にぁ、にぁ」

 鳴き真似が功を奏したのかは判らないが、黒猫は私の方に近寄ってきた。よく校内で見かける黒猫だった。首輪をしているところを見ると、誰かに飼われているようではあるが、このあたりのどこかに別荘でも構えているのだろうか。

「よしよし。いい子だね」

 寄ってきた黒猫を思う存分撫でてやる。のどのあたりをくすぐってやると、黒猫は気持ちよさそうに目を細めた。至福の瞬間。と、次の瞬間、背後でザリっ、と靴音がして、驚いた黒猫は飛ぶように逃げてしまった。

「あのっ!遅れてごめんなさいっ!」

「はい?」

 内容の割には妙に浮かれた声に話しかけられて振りむくと、相手の顔に思わず「あ」、と声が漏れた。そこには昨日の、あの怪しげな踊りの覗き男がやや緊張気味に、しかし顔を紅潮させて立っていたのだ。

「あれ……?君は……もしかして、君がくれたの?いやー、ごめんね、遅くなっちゃって」

 言っていることの意味が判らず、私は聞き流しながら、にやけた顔でマイペースに喋る男子を見返す。

 改めてこの男子を観察してみる。背は長身でも小さくもなく、太り過ぎているわけでも痩せているわけでもない。顔は、……鼻の下が多少伸びているけれど、昨日の事を差し引けば第一印象としては悪くない。制服もきっちり着ている。見た目だけではおよそ、あのような変態行為をする人間には見えなかった。右手に何か手紙のようなものを握りしめていて、ファンシーなキャラクターのプリントが紙の端に見える。

「そ、それで……伝えたい事って何かな?」

 男子は鼻息荒くそう言ったが、私にはさっぱり意味が判らなかった。とりあえず様子をみていたのだが、彼の目は私の返事を待ってらんらんと輝いていて、黙っていてはらちがあきそうになかった。伝えるって、昨日のような行為は迷惑だから謹んでください、とでも言えばいいんだろうか。よくもまぁ、昨日変態行為を働いた相手にこんなにも気楽に話しかけられるものだ。

「あの、さっきから何を言ってるんです?もしかして、覗きの言い訳でもしているつもりですか?」

 彼にとって予想外の返答だったのか、男子はきょとんとした目でこちらと、手元の手紙を交互に見る。

「え、あの……これって君がくれたんじゃないの?」

彼は右手に握っていたものをひらひらさせた。さっき見えたファンシーな便箋と、ピンクの封筒。封筒にはハートのシールが付いている。もちろん、見覚えはなかった。

「それ、何ですか?」

「で、でもこの封筒に校舎裏に来て欲しいって!」

 彼は困ったように言った。

「知りません。私はたまたま通りかかっただけです」

「え……そうなのか……」

そう言って、男子は初めてがっくりと肩を落とした。蓼食う虫も好き好きというが、こんな変態を呼び出すなんて、酔狂な人もいたものだ。そういえば、この人はどこのクラスなのだろう。いくら間違っても、同じクラスではなかったはず。

「あの、あなた何組の人なんですか?」

「えっと、僕は2―Aの橘純一」

 聞いてないけれど、ご丁寧にフルネームまで教えてくれた。

「ああ、一応先輩だったんですね。あまりに落ち着きがないので、同学年かと思ってました」

「それじゃ、そういう君は……」

 私の嫌味は橘先輩には効果がなかったらしい。タフな人なのか、それとも話を聞いていないのか。

「1-Bの七咲……です」

 気が進まなかったが、名乗られては仕方がない。

「名前は?」

 悪びれずに聞く橘先輩。

「……逢、ですけど」

「へぇ~、珍しい苗字だね」

「珍しくてすいません」

 さすがに少し腹が立って、私は敵意をこめて答えた。

「いよっ!橘!」

 突然横から声がしたので、そちらを見ると、制服をちょっとだらしなく着ている短髪の男子が、にやにやしながら橘先輩に近づいてきていた。

「梅原!?どうしてここに?」

橘先輩は目をぱちくりさせている。私は面倒になりそうな空気を感じて、二人から二歩ほど離れた。部活もそろそろ始まる時間だ。

「あっ!まさかこの手紙……!」

 橘先輩が、歩いてきた梅原先輩……多分先輩だろう、を悔しそうに見ていた。

「いい勘してるねー、その通り、お前を引っかけたんだよ!」

屈託のない笑顔で笑う梅原先輩。どうやら、先輩男子たちの遊びに巻き込まれてしまったようだ。しかし今時、嘘のラブレターなんて、引っかかる方もどうかと思うが、仕掛ける方も仕掛ける方だ。仕掛けている所を何も知らない人に見られたらどうするんだろう。

「たちの悪い冗談はやめろよ」

「前回のお返しだ、悪く思うな」

 がっかりしたような表情で言う橘先輩に、ケラケラ笑う梅原先輩。前回、ということは、彼らはこんな遊びを繰り返しているのだろうか。巻き込まれた私にお構いなしの二人の態度に、私は大きな溜息をこぼし、それに気付いた梅原先輩がこっちを向いた。

「っと、そっちの……えっと、七咲には迷惑かけちまったみたいだけどな。っと、俺はこいつと同じクラスの梅原正吉」

「すみませんが、急いでますので、失礼します」

 私は梅原先輩の話を遮り、そういって強引にその場を離れた。

 

 部活はあまり集中できなかった。いつもなら無心に泳げるのだけれど、昨日、今日と連続で遭遇した出来事に心をかき乱されたせいか、思ったように泳げない。自分の身体が機械になったみたいに、意識せずとも身体は動くのだが、それぞれの部品の統制がとれてないみたいに、あと一歩のタイムが伸びなかった。こういうことはこれまでも時々あった。本当に気分が乗っている時は、普段よりも早く泳げるし、気分が沈んでいる時は、いくら理想的なフォームだと感じてもタイムが伸びない。校内選考が近いのが少し気になったが、私は今日の結果をあまり気にしない事に決めた。

 帰り道、いつものように一人で通学路を歩きながら、何とはなく私は今日の事を思い出す。橘先輩の顔が浮かんできた。

「……会ったこと、あったかな」

 そう思ったのは、橘先輩の顔が、どこかで見たような、誰かに似ているような、そんな気がしたからだった。少しの間思いだそうとしたけれど、結局手がかりが見つからなくて、私はやがて考えるのをやめた。

 

「逢ちゃん、おべんと一緒してもいいかなー?」

翌日のお昼休み、クラスメートの美也ちゃんが、最近転入してきた中多さんを連れてやってきた。私はどうぞ、と近くの空いている椅子を示すと、美也ちゃんはサンキューサンキューと言いながら、机を移動しお弁当を広げた。中多さんもおずおずとそれに続く。

美也ちゃんは私と正反対で、とても愛想がよく、クラスメートの男女問わず大部分と仲がよかった。美也ちゃんはショートヘアの小柄な明るい女の子で、表情豊かによく笑う。行動や言葉は同い年の私からみても幼いように見えるが、その実美也ちゃんは想いやりに溢れている。転入してきたばかりの中多さんに友達を作ってあげようとしているのか、最近は二人で色々な人と昼食をともにしているようだ。橘美也。……橘?

ふっと、私は美也ちゃんの顔を見つめた。等の美也ちゃんは「おっべんと~」とうれしそうに歌いながら蓋をあけて、箸の用意をしている。確か、美也ちゃんには兄弟が居ただろうか。ひょっとして……

「おっ、逢ちゃん、そのタコさんウインナーはいいタコさんっぷりだねぇ」

箸の先を開閉させながら私のタコさんウインナーを狙う美也ちゃん。私は左手で素直に弁当箱を差し出した。ニコニコしながらウインナーをつまむ美也ちゃんに判らないようにお弁当箱で死角を作り、私は右手で美也ちゃんの卵焼きを一切れ、頂戴した。中多さんがそれに気づいて、閉じていた口を開けかけたので、私は一瞬だけ中多さんに視線を送って制しておいた。中多さんは困ったように笑いながら口元をもごもごさせていた。私は美也ちゃんに疑問をぶつけてみた。

「美也ちゃん、ちょっと聞きたいんだけど……」

 私は、おかずの影に卵焼きを隠しながら聞く。

「ん?なーに?」

 タコさんウインナーをほおばり、幸せそうな美也ちゃん。

「美也ちゃん、お兄ちゃんいるんだっけ?」

「にぃにがまた何かしたっ!?」

 聞くなり、美也ちゃんは椅子を跳ね飛ばし立ちあがった。一瞬、教室にいるクラスメイトの視線が集中する。美也ちゃんはそれに気づいて、なんでもない、と周りに愛想笑いを振りまいてから着席した。

「昨日橘純一っていう先輩と話をしたから、ひょっとしたら美也ちゃんのお兄ちゃんだったかなと」

 今の美也ちゃんのリアクションで、もう確認するまでもなくなってしまったけれど。

「うー、それは間違いなくに…お兄ちゃんだね。逢ちゃん、大丈夫だった?」

 言い直す美也ちゃん。さっきも「にぃに」と呼んでいたし、自宅ではそう呼んでいるのだろうか。仲は悪くないみたいだ。

「大丈夫って?」

「お兄ちゃんはバカでエッチで変態だからさー」

 妹にまでそう言われるとは、筋金入りなんだろうか。ちょっと怖い。

「昨日だって紗江ちゃんに……」

 そこまで言ったとき、中多さんが両手で顔を覆い、首をぶんぶんと振った。

「せっかく紗江ちゃんのふかふか具合を確かめてたのに、お兄ちゃんが」

「美也ちゃんっ!」

 中多さんが顔を真っ赤にして、美也ちゃんを制した。

 ……何があったんだろう。

「うー、みゃーも紗江ちゃんみたいにふかふかだったらなぁ……」

 そういって美也ちゃんは両手を中多さんの胸元に向けながら、指先をわきわきさせた。怯えた表情の中多さん。確かに、中多さんはその小さな背丈の割には、アンバランスなほど大人な体つきをしていた。少し茶色の繊細そうな髪、美也ちゃんの言う「ふかふか」の名に恥じぬ立派な身体。制服の上からでもそう思うのだから、水着なんか着たらすごいのだろう。

「でも、私は美也ちゃんみたいなのが水の抵抗が少なそうで羨ましいけどな」

 言いながら、卵焼きを食べる私。

「うー、ぜんぜんフォローになってないよ逢ちゃん……」

 美也ちゃんは自分の胸の前で、手をすかすかと振った。卵焼きの事は気付いていないみたい。

「で、逢ちゃんはお兄ちゃんと何を話したのかな?」

 興味深そうに聞く美也ちゃん。

「ううん、人違いでちょっと話しかけられただけだから」

「それならいいけど……お兄ちゃんすぐ女の子に変な事するからなぁ」

 美也ちゃんはそういって腕組をして唸った。そのまま、美也ちゃんは兄がいかに変態かを、お弁当を食べながら教えてくれた。辛いことがあると押し入れに閉じこもってしまうこと。その押し入れには蛍光ペンで星が書いてあること。綺麗な女の人には目が無いこと。時々踊りだしたり、歌いだしたり変な行動をすることがあること。梅原先輩と「お宝本」や「お宝ビデオ」のやりとりをしていること。ここまでに挙げた奇行がばれていないと思っていること。兄の奇行を心配しているのか、それとも兄を慕う妹としての嫉妬か、橘先輩の「変態ぶり」をよく知る美也ちゃんが語る橘先輩の奇行は十分に聞きごたえがあったが、真剣に悩んでいる美也ちゃんはちょっとほほえましかった。

「あ、そろそろお昼休み終わっちゃう!」

 話す事に夢中になっていた美也ちゃんは、思い出したように教室の壁掛け時計を見てそう言った。

「あ、本当だ。美也ちゃん、卵焼きごちそうさま」

 美也ちゃんは目をぱちくりさせて、自分の弁当箱に視線を落とし――ああっと大きな声を挙げて、もう一度教室の注目を集めた。その横で、中多さんが肩を震わせて笑いをこらえていた。

 

 その日の放課後。驚いたことに、今日も校舎裏に橘先輩は居た。それも、今度は私を見るなり、笑顔で手を振って近づいてきた。また何かのイタズラに引っかかっているのだろうか?

「……先輩」

 自然と警戒している私の声。

「やあ、七咲」

 私の前まで来ると、橘先輩は私の前で頭を下げた。

「七咲、ごめんっ!」

 突然の事に戸惑って何も答えられない私。橘先輩は続けた。

「七咲の迷惑も考えずに……ほんとにごめん!梅原の罠だなんて気付かなくて、てっきり七咲が手紙を出してくれたものだと……」

 どうやら、昨日の事を言っているらしい。わざわざ謝りに来るなんて、思ったより誠実な人なのかもしれない。橘先輩の一生懸命さに思わずちょっと笑みがこぼれ、私は警戒を解く。

「大丈夫です、顔を上げて下さい、先輩」

 そういうと、橘先輩はやっと顔を上げた。

「許してくれる?」

「はい、妹さんの卵焼きに免じて」

 笑顔で答える私。

「へっ?卵?」

 橘先輩は不思議そうに私を見ている。

「はい、美也ちゃんの卵焼きに免じて、です」

 本当はお互いさまなのだが、面白そうなので、そういうことにしておいた。

「そっか……なにはともあれ、許してくれてよかった」

 安心したように、橘先輩は息をつく。

「ふふっ、これに懲りたら、早とちりはしないでくださいね」

 美也ちゃんのお兄さんだからだろうか、それとも美也ちゃんの話で多少の耐性がついたのか、私は橘先輩を見て、昨日までほどの敵対心を抱いてはいなかった。

「いや、あれは梅原が……」

気まずそうに頭を掻く橘先輩。

 それから少しの間、私と橘先輩は話をした。美也ちゃんと同じクラスであること。私には弟がいること。好きな漫画のこと。梅原先輩のこと。部活の時間が近くなり、私は橘先輩と別れ、プールに向かった。

 その日の帰り、部活おわりの心地よい疲労感に包まれながら下足箱の蓋をあけて、ふと私は想像する。もし、橘先輩に手紙を出していたのが梅原先輩ではなく、本当に私だったら――意味も何もない想像をしている自分がおかしくて、私は少し笑った。

 それからも度々、私と橘先輩は校内で出会う度に話をした。通学路で、校舎裏で、廊下で、食堂で、校庭で。朝に、授業の合間に、昼休みに、放課後に。話の内容は他愛もない、ただの雑談。勉強のことだったり、趣味のことだったり、昨日見たテレビのことだったり。でも、橘先輩との会話は、意外にもとても楽しかった。表情豊かに私の話を引き出してくれる橘先輩。共通点を見つけると嬉しそうに笑ってくれて、知らない事には興味を持ってくれる。美也ちゃんが心配していた「バカでエッチで変態な」橘先輩は会話や行動の端々に見られなくもなかったが、それ以上に私に真剣に向き合ってくれる事に、私は好感を持ちはじめていた。

 

 橘先輩と出会って十日ほどたったころだろうか。放課後、非常階段を降りようとすると、またも階下に橘先輩を見つけた。時計を見て、少しなら話をしても大丈夫だな、と確認。

「先輩」

 私は階段を降りながら橘先輩の元へ。

「あ、七咲。また会ったね」

 嬉しそうに私を見る先輩。

「ふふっ、そうですね」

話が上手な橘先輩と会えたことに、私も少し嬉しく思っていた。

「えっと……七咲ってさ、よく校舎裏で会うけど、ここで……一体何をしてるんだ?」

 橘先輩はきょろきょろとあたりを見回す。

「何、と言われましても……」

 ここは私にとっては部活への通り道でしかなく、何かをするといっても、偶然会った猫と戯れる程度。橘先輩の質問に私は一瞬困り、それから、私はまだ橘先輩に、自分が水泳部に所属している事を伝えていない事に気がついた。その事を話そうとして……私は少し、橘先輩をからかってやろうと思った。

「では、そういう先輩こそ、校舎裏に来て一体何をしているんです?」

 わざと、咎めるような表情で聞いてみた。

「えっ?あ、それは……」

 明らかに狼狽する橘先輩。

「もしかして言えないようなことですか?」

 橘先輩が喋りだす前に、私は言った。

「やっぱり……覗きとかなんですね」

 睨みつけてみる。

「え、ええっ!違うよ!!」

 両手を大きく振って否定する橘先輩。年上である橘先輩が、私の言葉に翻弄されているのが、ちょっと楽しいと思った。

「何が違うんですか?」

「だ、だからあれは……階段の下から覗こうとしたんじゃなくて……」

 目が泳いでいる。私はどんどん攻めていく事にした。

「見たんですね?あの日も……」

「いや、だから……」

 困り果てた顔の橘先輩、睨みつづける私。

「七咲、信じてくれよ……」

 橘先輩が泣きそうなくらい情けない声を出したので、私は笑いそうになってしまった。怒ったふりでそれを隠して、ゆっくりと橘先輩の目の前まで近づく。

「ふふっ、先輩」

 我ながら、悪戯っぽい顔をしていたと思う。

「え……」

「えいっ!」

 怯えた橘先輩の前で、大サービス。私は自分のスカートをたくし上げて、先輩にその中身を示した。

「うわぁっ!黒っ!?」

 重要なのは色だったらしい。

 先輩は顔の前を両手で覆って、私のスカートの中身を見ないように隠し、それでもやっぱり欲望に勝てずちらちらと中を見てる。先輩の中では自制心と欲望との激しい戦いが展開されているようだった。先輩の自制心、普通の人よりもずっと弱いけど。

「な、七咲、これはどういう……」

「橘先輩……覗くよりもこっちのほうが、よく見えますよ」

 わざと、スカートをひらひらと動かして挑発してみる。

「いやっでも、それは……」

 断りつつ、ちらちら視線を上下させる橘先輩。面白い。

 わざとスカートの中を見せたのには、橘先輩を挑発するだけではない理由があった。今日も、始めて橘先輩と遭遇したあの日も、私は制服の下に水着を着ていた。だからといってスカートの中を覗いて良かったということにはならないが、それがあの日、私がスカートの中身をのぞかれても気にしなかった理由だった。これまでの橘先輩との会話の中で、私は橘先輩を信用しようと思った。あの日の目的が覗きではなく猫を探していたと言っていた橘先輩。だから、水泳部に所属しているから校舎裏を通るという説明と、ここまでわざと先輩を咎めるような態度をとったことに対するお詫びと、それからちょっとのいたずら心で、この乱暴な自己紹介をした。

 ……が、橘先輩には、妄想上で私の黒い下着姿が見えてでもいるのか、未だにどうしていいか判らないように顔を手で覆い、指の間からちらちらと私を見ていた。このままだと、なんだか私が変な女みたいになってしまう。

「あの、先輩?冗談じゃなくて、よく見て下さい……」

 さすがに恥ずかしくなってきて、橘先輩に言った。

「えっ?あっ!水着なのか!」

 はっとしたように言って、顔を覆っていた両手を降ろす橘先輩。

「やっと気付きましたか」

 まくり上げていたスカートを降ろす。

「じゃあ、あの時の黒い下着ももしかして……」

 橘先輩の言葉が少し残念そうだったのは、たぶん気のせいではない。

「ええ、この水着です……というか、やっぱり覗いてたんじゃないですか」

 言いながら、ちょっと溜息。

「う、だから誤解だよ、僕は覗きなんて」

「ふふっ。分かりました、信じます」

 橘先輩の前でそう宣言した。本当はとっくに信じていたのだけれど。

「そっか、ありがとう」

 先輩は安堵の息をつく。

「それと……これで納得できましたよね?」

「へっ?」

 きょとんとする先輩。黒い下着の妄想のせいで、私の自己紹介はすっ飛んでしまったらしい。

「自分で聞いておいて忘れたんですか?私が校舎裏を通る理由ですよ」

「あっ」

「もうお分かりだと思いますけど、私、水泳部なんです。ここを通るのは校舎裏の部室が近いので……こうして下に水着を着ているのは、着替えの手間を省くためなんです」

 夏場は暑いのであまりやらないが、スクール水着は着るのも脱ぐのも面倒なので、冬場は私のように、制服の下に水着を着ている水泳部員は多かった。

「なるほどね」

「納得していただけましたか」

 ちょっと安心して、私は腕時計を確認する。もう部活が始まる時間だった。

「すみません、そろそろ部活なので……」

 足元に置いていた鞄を取って、私は橘先輩に言う。

「あ、ごめんね話しこんじゃって」

 橘先輩も鞄を担ぎ直す。

「いえ、それでは……」

 立ち去りかけて、私は橘先輩の方にもう一度向き直る。

「それと、最後に……先輩って、結構単純なんですね。スカートの中を食い入るように見ていたところ……ちょっとかわいかったですよ」

「えっ……」

 ショックをうけたような顔の橘先輩。これも、ちょっとかわいい。

「ふふ、それじゃ私はこれで。今後はもう覗きなんてしないでくださいね。では、失礼します」

 弁解したそうな橘先輩を尻目に、私はちょっといい気分で部室に向かった。

 

 夜。今日も泳ぎ通した疲労感に包まれて、私はベッドに入った。冬の寒い空気が入らないように、厚めの布団を巻きつけるようにする。目を閉じると浮かぶのは、橘先輩の顔。

 「橘先輩」。十数日前まで、発した事もなかったこの言葉は、少しずつ私のお気に入りのフレーズになってきていた。年上なのに頼りなくて、ちょっとかわいい。年上だから時折感じる安心感。もっと、橘先輩と話がしてみたい。橘先輩の事を知りたい。

「橘先輩……か」

 小さくその名前を口に出してみて、ちょっと恥ずかしくなり、口元がゆるむ私。

「そういえば、先輩がどうして校舎裏に来てるのか聞かなかったな。こんど会えたとき、聞いてみようかな」

明日も会えるといいな、と思いながら、回復を望む身体と、早く明日になることを望む心の両者にせかされて、私は眠りについた。

 

 翌朝、学校までの坂道を歩く。橘先輩と会えないかなと思いながら、いつもより少し早歩き。

 途中で出会うクラスメイトに挨拶しながら、校門の近くまで来た時、見たことのある後頭部を見つけて、私の心は跳ねて……その時、目に飛び込んできた光景に私は思わず、足をとめた。

 橘先輩の隣には、私の知らない女性がいた。ちょっと癖のあるショートの髪の毛。おとなしそうな色のセーター。橘先輩が好きそうな、女性らしい柔らかそうな体つき。私にはない、豊かな胸の膨らみ。ニコニコ明るく笑う女性と、その隣でやっぱりニコニコ笑っている橘先輩。私の胸のあたりが、何かにのしかかられたように重く、沈んでいくような気がした。

 

(つづく)

つぶやくつぶやく

2010/05/08

勝手に小説化 FF5 vol.7

Filed under: 勝手に小説化FF5,連載 — ksk @ 11:47 AM

 海賊船の船長ファリスは、孤児だった。幼いころに乗った船が難破し、遭難しているところを海賊に拾われてから先、ずっと先代船長の子として生きてきた。本当の父と母の顔は知らない。ファリスが持っている最初の記憶は、たくさんの海賊たちの笑顔だった。

 ファリスが16歳になるころ、育ての父であった船長が死んだ。本来穏やかな海域であるトゥール近海に、外海から迷い込んだと思われる強力な魔物が現れた時だった。父は船員と街を守るため、毒をたっぷり持って、自ら海へ飛び込んだ。命を賭して他を守った父はまだ若かった。ファリスは、父が自分の為に嫁を取らなかった事を知っている。

 ファリスは、父の後を継いで船長になった。ファリスの若すぎる船長就任には当然のことながら、多くの反対があったが、ファリスはそれを手腕でねじ伏せた。誰よりも近い位置で父を見てきたファリスは、既に十分なまでに船長としての素質を蓄えていた。やがて、ファリスが船長であることに異を唱える者はいなくなった。

 ファリスが18になった時、ファリスにとって善き相談役であった老人、先々代船長から呼び出された。アジトの一室で、先々代はファリスを机の向かいに座らせると、紫の宝石を抱えたペンダントを卓上に置いた。

 それから先々代は、沢山の事をファリスに告げた。ペンダントはファリスが拾われた時、ファリスが握りしめていたものであること。ペンダントを頼りにファリスの家族を探したが、結局見つからなかったこと。育ての父のファリスに対する想い。父に、結婚後すぐ失った嫁がいたこと。最後に先々代は、ペンダントをファリスに握らせ、今後をどう生きるかは、己で決めなさいと強い目で言った。ファリスは動揺を隠し「本当の家族に会ったら、一発ひっぱたく」と宣言して部屋を出た。その後、ファリスは自室で泣いた。

 それからも、ファリスは船長として生きた。ファリスにとっての一番大きいものは、結局、海賊としての自分と仲間だった。自分の正体が知りたくないわけではなかったが、しかしファリスはこれまでの自分に、父と仲間に誇りを持っていた。だから、ファリスは敢えて自分の正体を探ろうともしなかった。

 しかし、その機会は向こうから現れてしまった。密航者の女が自分と同じペンダントをもっていた。また、真偽は判らないが、その女は自分をタイクーンの王女と名乗った。もし本当なら、自分はいったい何者であるのか。大きな手掛かりになるかもしれなかった。

「風の神殿に行きたいとか言ってたか……」

 自室でファリスはそうつぶやいた。

 

「おかしら、連れてきやした!」

翌朝の船上、舳先に立つファリスの前にバッツ達三人は連れてこられた。ろくに食事も与えられず、空腹の極みだった三人は、抵抗する力も出ず素直にその場に直立していた。

「こいつらを、どうするんで?」

 海賊の一人が言った。ファリスはひとつ頷き、三人を順番に見た。しばらくして、ファリスは部下たちを見まわし

「縄を解いてやれ!」

力強く命じた。海賊たちの間にどよめきが走った。

「早くしねえか!」

 反論されるより早く、ファリスは再度命じた。海賊たちは困惑した表情で三人の縄を解いた。数時間ぶりの解放に、三人は凝り固まった身体をほぐすように手足を振った。

「風の神殿に向かう!」

 ファリスが宣言した。船上にさらなるどよめきが走った。ただ一人、レナだけが顔をぱっと輝かせていた。

「どうして……?」

 レナが聞いたが、ファリスは質問を遮るようにぶんぶんと首を振った。

「力を貸してやるって言ってるんだ。いいじゃねえか!さぁ、風の神殿に向かうぞ!」

 有無を言わさぬといったように、ファリスは一方的に言った。海賊たちは納得がいかぬようだったが、ファリスが再度怒鳴ると、海賊たちはアイアイサーと応え、しぶしぶ出航の準備を始めた。

「ありがとう……」

 レナが、ファリスの横に近寄り、感謝をこめて言った。バッツは二人を見ながら、一瞬まるで似合いの恋人たちであるかのように錯覚し、複雑な気分になった。ガラフが横で、絵になるのお、と呟いていた。

「ファリスだ。」

 ファリスは三人に言った。

「俺の名前。これからはファリスでいい。」

「私はレナ。よろしくね、ファリス。」

 レナはにっこりとほほ笑んだ。バッツとガラフも、それぞれの名をファリスに告げた。

「そうだ、これ。」

 ファリスはそう言って、懐からレナのペンダントを取りだし、レナに返した。レナは不思議そうに目をぱちくりさせた。

「大事なものなんだろ、ちゃんとしまってろ。俺みたいなごろつきに盗られないようにな。」

 ファリスは少し恥ずかしそうにそっぽを向いて言った。レナがにっこり笑った。

 

 海賊の一人がマストによじ登り、手際よく帆を降ろすと、ファリスに手信号で合図をした。ファリスはそれを受け頷く。

「風が止まっているのに、どうやって船を動かすの?」

 レナは率直に訊いた。バッツもそれには興味があった。舵はびくともしなかった。一体何がこの船の動力なのだろうか。ファリスは、ふふん、と嬉しそうにすると、舳先の方を向いて叫んだ。

「シルドラ!挨拶しな!」

 全員がその言葉に海の方を見た。一瞬、沈黙が流れた。その後すぐに、水面がにわかに盛り上がり、轟音とともに何かが海面から浮上してきた。船はその衝撃で大きく揺れ、バッツ達はバランスを崩し、甲板に倒れこんだ。

 浮上してきたのは、船体の半分ほどの大きさの巨大な海竜だった。顔はドラゴンのそれだが、首から下は甲羅のない亀のような身体つきをしている。体表面は美しい銀の鱗におおわれ、太陽の光を受けて薄紫にきらきらと輝いていた。

「すごい……」

 揺れる船上でレナが思わずつぶやいたとき、ファリスにシルドラと呼ばれた海竜は美しい声で鳴いた。ファリスは舳先に立つと、顔を近づけてきたシルドラの鱗を優しく撫でた。

「どうだい?俺はこいつと一緒に育ったんだ!兄弟みたいなもんさ、なぁ、シルドラ?」

 シルドラは幸せそうに目を細め、高い声で鳴いた。

「なるほど、海竜に船を引かせたというわけか。確かにこれなら、風が無くても船は走るのう。」

 ガラフが感心したように、豊かな髭をいじりながら言った。

「これで、風の神殿に行けるのね」

 嬉しそうに、しかしどこか不安げに、レナが言った。ファリスは大きく頷いた。

「行こう。……急いだ方がいいのかもしれない。」

 バッツは、自分の中の胸騒ぎが大きくなるのを感じていた。時間がない。バッツは直感的にそう思っていた。

「よし、出発だ!」

ファリスが高々と宣言すると、シルドラはゆっくりと海に身を沈めた。程なくして、船は風のない海原へと動き出し、降ろされただけの帆が不安げにぱたぱたと揺れていた。

つぶやくつぶやく

2010/04/06

勝手に小説化 FF5 vol.6

Filed under: 勝手に小説化FF5,連載 — ksk @ 12:01 AM

「さて、どうしてやろうか、無法者のお客さんたち?」

 後ろ手を縛られた三人の前で、美しい紫の髪の青年が、にやりと悪そうな笑みを浮かべた。

 三人の潜入は失敗に終わった。海賊のアジトに忍び込み、海賊たちのミーティングの隙を狙って船に乗ったところまではよかった。しかし肝心の、風が無くても走る船の動かし方が判らなかったのである。錨をあげたにも関わらず、びくともしない舵の前でバッツ達三人がまごついている間に、海賊たちは異変を察知して戻ってきてしまい、多勢に無勢となった三人は大人しく降伏したのだった。

「俺の船を盗もうとは、随分と大胆なじゃないか。」

海賊たちのリーダーは、驚いたことに目の前でバッツ達を見ているこの青年だった。およそ海の男とは思えない華奢な体躯。脚はすらりと長く、船上で務まるのかと思うほどに細い腕。背もあまり高くない。そして何より、屈強な男たちの中で、という条件を差し引いても、青年は美しかった。男ばかりの船上でなく、街に出ていたなら、女たちが放っておかないだろう、とバッツは思った。青年は三人を値踏みするように見回した。

「そっちのじいさん、服だけは高く売れそうだ。で、そっちの兄ちゃんはダメだね。体は丈夫そうだし、どっかで働くかい?」

 若い首領の言葉に、手下の海賊たちはガハハと下品に笑った。バッツは青年をにらみ返してやった。青年はバッツに対抗するでもなくレナを見る。

「こっちの嬢ちゃんはよほどのいい生まれと見える。……いーいお値段になりそうだ。」

 青年は声色を使い、わざとレナを驚かすように言って見せた。しかしレナはお構いなしに青年に向き合い言った。

「私はタイクーンの王女レナ。勝手に船を動かそうとしたのは謝ります」

 きっぱりと言い放った。王女と聞いて、海賊たちの間にどよめきが走った。そして驚きはバッツとガラフにとっても同じだった。二人は思わず顔を合わせた。ただ一人、海賊の首領の青年だけがさっきよりも嬉しそうに笑みを浮かべていた。

「お願い!船を貸して下さい!風の神殿に行かなければ……お父様が危ないの!」

 言ってレナはうなだれた。両手を縛られているため、顔を抑えることもできず、甲板に涙のしずくがぱたぱたと落ちた。しかし、青年は高らかに笑った。

「へぇっ!タイクーンの王女さまかい!こりゃあいい金になりそうだ!」

「やめろっ!レナに何かしてみろ、許さないぞ……!」

バッツは言いながらレナと青年の間に割って入った。

「おうおう、いきがるねぇ。こっちは船を盗もうとした不届き者から自分の財産を守ろうとしているだけだよ、『自称』王女様と、御一行様?」

 青年はやれやれとおどけてみせた。バッツは言い返せず、歯ぎしりして青年を睨みつけた。青年はそんなバッツを見返していたが、ふいに、青年の表情が厳しくなった。

「そもそも、だ。アンタたち海賊を勘違いしてるだろう?略奪で金や人を奪う野蛮人だとでも思っているんじゃないのかい?そうじゃなきゃ、わざわざ船を盗みに入ろうなんて思わないよな?」

 青年は三人を順番に見た。表情に僅かに怒りがこもっている。

「いいかい、ここいらじゃ海賊は海の番人だ。仕事はもっぱら商船や漁船の護衛、危険な怪物の討伐、荷物の運搬。海の上じゃ腕っぷしが商売になるんだ。逆に略奪なんてしてごらんよ。ここいらは内海だ、すぐに王国軍から討伐されちまう。」

 青年は続ける。

「俺達にしてみりゃ、野蛮なのはあんたたちの方だ。風の神殿に行きたい?おーう連れてってやるさ、あんたたちが『信頼できるお客様』ならね。適正料金でお連れしてやるよ。でもどうだい?うちの船を盗もうとするようなやつら、おいそれと船に乗せられるとでも?できっこないね!あんたたちは自分で自分の道を塞いだんだ。ザマァないね!」

 言いきって、三人を睨みつけた。バッツは何も言えず、ガラフも目を伏せて首を振っていた。バッツは自分の早とちりを悔しく思った。海賊は危険な集団であるという自分の先入観が、今の事態を招いたのだ。しばし、船の上に沈黙が続いた。

「でも……」

 静寂を破って口を開いたのはレナだった。

「でも、風の神殿に行きたいんです!勝手に船に乗ったことは謝ります!どうか!どうか……」

 そこまで言って、レナは甲板にがくりと膝をついた。

「お願い……」

 頭を垂れたレナの姿を見て、青年はふん、と鼻を鳴らすと、レナのが首にかけている鎖をすっと引いた。鎖の先にはペンダントがついていた。レナは困ったように青年を見つめたが、青年はそれを無視し、ペンダントを凝視した。

「このペンダントは……」

一瞬、訝しげな表情をし、手にとって物色するようにしばし眺める。しかし、やがて先ほどまでのように悪い笑みを浮かべると、ペンダントを懐にしまい、すぐに海賊たちの方に向き直った。レナには返事をせずに、海賊たちに指示を飛ばす。

「そいつらを牢にぶちこんどけ!服は着せたままでいいが、武器になりそうな物は奪っておきな!」

 そう言って、海賊たちがアイアイサーと敬礼すると、青年は船室に降りて行った。

 

 三人は両手の自由が利かないよう、さらに縄をかけられ、狭い部屋に閉じ込められた。青年は牢と言ったが、普段は荷物を積み込むためのスペースなのか、部屋には空の棚や箱が無造作に置かれている。

「まいったのー、いったい誰じゃ、船を盗もうなどと言いだしたやつは!」

ガラフは腕と両足を縛られたままでぴょんぴょんと船室を移動し、物色しながら文句を垂れていた。

「おいおいじいさん……あんただろ!」

「うっ!頭が痛い!き、記憶喪失じゃ……!」

 ガラフは急に倒れると、身体をくの字にして大げさに痛がった。

「まったく、都合のいい記憶喪失だな……」

 バッツは呆れたように言った。二人の掛け合いを聞いていたレナがくすりと笑ったのを聞いて、バッツは少し救われたような気がした。

「それにしても、驚いたな……レナがタイクーンの王女だったなんて……王女様がどうして一人で風の神殿に?」

 バッツがレナを見ると、レナはすまなそうな顔で頭を下げた。

「ごめんなさい、隠すつもりはなかったの……お父様が風の神殿に向かわれて、それからしばらくして風が止まったわ。何かよくないことが起ころうとしている気がして、でも、城のものは私が外に出ることを許さないでしょう。だから私、一人で城を抜け出して……そうしたら、空から隕石が降ってきたの。落下の時の衝撃で気を失っていたところに、あなたが……」

「なるほどねぇー」

 話を聞きながら、バッツも船室に横になった。

「さっきのペンダントは?」

「あれは、王家のペンダントなんです。……大切な……」

 言い淀んで、レナはじっと空中の一点を見つめた。

 

 すぐ隣の船室は船長である青年の一人部屋で、ベッドと机、簡単なテーブルが配置されたシンプルなつくりだった。青年は長い時間、先ほどレナから奪ったペンダントをじっと見つめていた。船室のランプの光を受けて、レナのペンダントの中心に据えられた紅い宝石がきらきら輝いていた。青年は随分長い間ペンダントを眺めていたが、ふいに立ち上がると、机の引き出しから光るものを取りだした。それは、青年がまだ幼かったころ、洋上で漂流していたところを海賊に助けられたときに握りしめていたペンダントだった。ペンダントは、レナの持っていたそれとうり二つだった。ただ一つ、青年のペンダントは、中心に紫の宝石を抱えていることが違いだった。二つのペンダントは青年の両手の内で、まるでお互いの再開を喜ぶかのように光っていた。

「なんだって、タイクーンの王女さまが、俺と同じペンダントを……」

 青年は、予想外の事態に戸惑いを隠せなかった。初めは、不届きな侵入者を叱りつけて、一晩程度船室に閉じ込めて脅かした後、街に近い海岸の適当なところで解放してやるつもりだった。海賊に対する無礼を働いたものに対するいつものお灸。それだけで済むはずだった。それが侵入者はタイクーンの王女を名乗り、その王女が持っていたのは自分と同じペンダントである。抱えた厄介の大きさに、青年は思わず大きな溜息をついた。 

つぶやくつぶやく

2010/03/11

勝手に小説化 FF5 vol.5

Filed under: 勝手に小説化FF5,連載 — ksk @ 11:50 PM

三人の希望は、早くも打ち砕かれた。

三人がボコの背にのり山岳地帯を走り始めて十数分、三人の前にはとても昇れそうにない絶壁が広がっていた。バッツは溜息をついた。レナとガラフが居なかったとしてもとても登れそうにない。ボコは困ったように弱々しく鳴いた。

「こりゃ、万事休すかな……」

バッツが呟くと、ガラフは悲痛な面持ちで肩を竦めたが、レナは返事をせずにボコから降り、絶壁の方へ駆け寄った。そしてそのまま、あたりを探り始めた。バッツはどうにもならないだろうと思いながらも、あたりを探索するレナを止めなかった。

 そのまま数分が立った。ガラフもチョコボから降りて所在なさげに辺りを眺め、歩きまわっていた。バッツはボコの広い背中に横になり、空を眺めた。真っ青で、雲は動かない。いい陽気のはずなのに、どこか不安げで、風はやはりあれから一度も吹いてこない。

 このままこうしていても仕方ない。引き返して、風の神殿に至る別の道を探すしかない。そうバッツは考え身体を起こした。

「バッツ!ここ!」

 呼びかけようとして逆にレナから呼びかけられ、バッツは驚いた。ガラフと共に、レナが指すあたりへ近寄る。絶壁の足元に、かろうじて人が一人入れるくらいの小さな穴が見えた。

「こんなところに洞窟が……」

「さっきの地震で出来たんだ……」

バッツが答えた。

「ふむ……深そうじゃな。」

 ガラフが奥を覗き込んで言った。確かに、すぐ近くに行き止まりがあるとは思えないような深い闇が、奥から覗いていた。バッツは風の流れを確かめようと、指を口に含み――その行為に意味がないことを思い出して、小さく舌打ちした。

「私、中に入ってみる……」

レナが洞窟に入ろうとしたので、バッツはそれを手で制した。バッツは火種の用意があるが、レナにそれがあるとは思えない。もし底が深かった場合、レナでは危険だ。そう判断し、バッツは率先して洞窟へ身を滑らせた。

内部は幸いにも浅かった。洞窟特有のひんやりした空気がバッツの頬を撫でる。突然の来訪者に、蝙蝠が激しく羽音を立てた。バッツは片手で壁を辿り、もう一つの手で荷物の中から火種を探した。が、前方を確認し、バッツはすぐにそれを止めた。バッツはもときた道を戻り、レナ達が待つところまで戻った。

「どうだった?」

 レナが心配そうな顔で聞いた。

「どこかにつながっているみたいだ。中に……かがり火があった。」

「えっ?」

「ほう。」

バッツの報告を聞き、二人が意外そうな声を挙げた。

「このあたりには、地下道が通ってるのかね?」

ガラフが聞いたが、バッツは首を振った。

「いや、そんなはずはない。」

バッツはそもそも、三人が目指しているトゥールからタイクーン城に向かって移動している最中で隕石の落下に遭遇した。その際にバッツはあらかじめルートを入念に確認している。トゥールでは、こんな位置に地下道があるなどという情報は得られていなかった。

「でも、今ここ以外に道はないのですよね。」

レナが強い表情で聞いた。バッツが頷く。

「それなら、進むしかないのう。」

ガラフが言った。

「そうだな……ボコ、この先、お前の身体の大きさで無理にはいると危険だ。お前はここで待ってろ。」

 バッツがそう指示すると、ボコは敬礼するように前脚の羽を挙げてクェ!と返事をした。

 

 三人は順番に洞窟の中にもぐりこんだ。はじめはいびつな地形が続いていたが、洞窟内のかがり火の辺りで、足元は急に滑らかになった。三人はかがり火の近くまで来ると、あたりを見渡した。

「ふむ、人工的に作った洞窟に隕石が原因の地割れ偶然繋がった、といったところじゃな。」

 ガラフが言い、バッツが頷いた。

「でも、この地下道はなぜ?」

 レナが首を傾げる。

「さっきのゴブリンとかいう輩が人間に隠れて使っているということではないのか?」

「いや、それは無い。あいつらにそこまでの頭はないよ。」

 バッツはそう答えながら、ガラフが、子供でも知っているゴブリンをまるで知らないかのように話している事に違和感を覚えた。何も思い出せないとはいえ、そんな一般的な知識も忘れてしまったのだろうか?

「じゃあ、一体だれが……っ」

レナがそこまで言ったところで、バッツがレナの口を塞いだ。人の気配がしたためだった。ガラフも警戒したように、洞窟の奥の一点を凝視する。気配がまだ遠いことを確認すると、三人は適当な岩場を探し、そこに身体を隠した。程なくして、気配は小さな足音になり、その足音は段々と三人に近づいてきた。バッツは二人に動かぬよう目配せをし、足音がバッツたちの前を通り過ぎたのを確認してから、そっと岩場から顔をのぞかせた。

バッツが確認できたのは、人間、筋肉質な男の後ろ姿だった。男は壁の行き止まりの辺りで何かを探すようにきょろきょろと見回すと、やがてある一点に手を伸ばした。

重たい音が洞窟内に響き、さっきまで行き止まりだったところには新たな通路が出来ていた。男が通路に入ると、程なくして再び重たい音を立てて、通路は元の通り壁に阻まれた。

「なーるほど。」

 バッツはにやりと笑い、二人に向き直った。

「何者じゃ?」

「判らない。けど、まっとうなもんでもなさそうだな。山賊か、海賊か……おそらく、ここはやつらの隠れ家に通じる抜け穴みたいだ。」

 バッツの言葉を聞き、レナが不安そうな表情を見せた。

「今は関わりあいになるのはごめんだ。あいつが来た方に行ってみよう。」

 バッツがそう言うと、二人は頷き、三人は男が来た道を進んだ。

 

 しかし、三人はまたも行き止まりに到着した。洞窟の出口は広大な海だった。海の向こうにトゥールの街並みを、さらに遠くに風の神殿のかすかなシルエットを見て、三人はがっくりと肩を落とした。さすがに疲れたのか、レナがその場に腰をおろし、困ったように息を吐いた。

「さすがに、泳いで行くわけにはいかない距離だな、こりゃ……」

「おい、あれは!?」

バッツの言葉を遮るようにガラフが叫んだ。ガラフの指差した方を見て、バッツもレナも唖然とした。そこにはあり得ない光景があった。

帆船が海の上を優雅に走っていた。風が止まってしまった今、風の力を受けて走る帆船は動くことが不可能であるはずだ。事実、帆船は風の力では動いていないようだった。帆は張るのではなく、所属を示す図柄が見えるよう単に下げられ、船が進む力を受けてゆるやかに後ろになびいていた。

「あの船……風もないのにどうやって走ってるんだ?」

 バッツの率直な疑問に答えられるものは居なかった。

「でも、あの船があれば……」

 希望を得たように、強い口調でレナが呟いた。確かに、その仕組みはともかくとして、動く船さえあれば風の神殿には辿りつくことができるはずだった。

「さっきの道を逆にいってみよう。船の持ち主に会えるかも知れない。」

「穏やかな輩じゃといいがの。」

 豊かな顎鬚を整えながらガラフが皮肉っぽく言った。さっき三人が見た帆船の帆には、巨大な髑髏が描かれていたのだ。

「……お願いすれば、乗せてもらえないかしら?」

 レナがごく普通にそういったので、二人は驚いた。

「相手は海賊だぞ!?」

 バッツが言うと、レナはきょとんとしてバッツを見返した。

「ならば……こっそり、いただくとするかの。」

 ガラフがそういったので、バッツはさらに驚いた。

「じいさん、意外と大胆だな……」

 バッツの言葉に、ガラフは高々と笑った。三人は船を手に入れるべく、もと来た道を戻った。

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