1月4日の夜、母方の祖母が他界しました。79歳でした。
自分にとっても大きな出来事でしたので、
この大事な出来事を忘れないために、
ここに記録として残させていただきたいと思います。
先に申し上げておくと、僕は祖母との別れを、
哀しいものとは考えておりません。
かねてから母より様態を聞かされていたため、
覚悟ができていたこともありますが、
祖母は人生を生ききった人物であり、
それは尊敬するべきもので、
決して悔いの残るようなものでは無かったためです。
そして祖母の周りは親族友人等、
老若男女様々な人物が取り巻き、
幸せに満ちた晩年でありました。
1月1日、僕の北海道への移動は、札幌にすむ祖母が、
もう長くないだろうという連絡を受けて、見舞いのために
ほぼ行って帰る日程での予定でした。
札幌についたその足で、祖母の病院へ。
自宅で母の介護を受けていた祖母は、
体調が悪化し大晦日に入院し、
ホスピスの広い4人部屋の一角で、
母と、祖母の妹に交代で看病を受けていました。
つい1年前、北海道旅行の際にまだ元気だった祖母は、
小さく、細くやせ細り、あんなにおしゃべりだったのに
喋るのも辛そうで、代わりに僕たちの話を聞いて微笑んでいました。
病室からは老と、死をイメージさせる香りがしていました。
1月2日、札幌から空港への電車に帰ろうというところで
母から祖母の体調の低下を聞かされ、急遽フライトを取りやめ。
もう一度祖母の顔を見て、それから祖母の自宅に戻りました。
3日、4日は何もできることがなく、
家にいても気が滅入ってしまいそうで、
北海道近辺をぶらついていました。
職場には帰りが遅れることを報告し、
すでに観光する場所もなくなった札幌近辺で、
本屋やゲームセンターで所在無い時間をすごしました。
4日の夜、こちらに来ていた父から祖母が亡くなった事を聞きました。
苦しむことの全くない、静かな最期でした。
祖母はその夜のうちに自宅へ帰ってきました。
冷たくなった祖母の顔は、
死に化粧で美しく整えられていましたが、
やはり小さく痩せていました。
それからは慌しく葬儀の準備です。
夜の間に葬儀の内容の取り決め。
翌朝、職場にさらに帰りが遅れることを連絡し、
それから死亡届の提出、弔問客の対応、喪服の準備。
しかし祖母は、死に瀕しても尚、超人でした。
生前も夫を早くに亡くしてからは、
伯父と母を女手ひとつで育てた祖母です。
最期まで完璧な準備をしていました。
仏壇にはすでに自分用の遺影写真候補が残され、
所有していた琴はすべて引き渡し先の希望が書かれ、
いつ旅立ってもいいように準備がなされていました。
葬儀は、大変賑やかなものになりました。
式こそ厳かであるものの、親戚には
遊びたい盛りの小学校以下の子供たちが7人。
そして祖母の明るい性格を知る親戚がずらりと揃い、
葬儀場の夜はお喋りに華咲く賑やかな大宴会に。
先に続く世代がこれだけそろっているということは、
祖母にとっても非常に幸せなことであると思います。
ですので、自分としても、祖母の最期は、
哀しく、湿っぽくというよりも、
明るく、誇らしく受け止めることができたと思います。
少し祖母の生前の話をさせてもらうと、
上述したとおり祖母は超人でした。
祖母は60を超えて尚ファミコンに親しみ、
スーパーマリオ、ドクターマリオをクリア。
がんばれゴエモンの全クリは、今の僕もできる気がしません。
琴・三弦を教え、マニュアルの乗用車を乗り回し、
パソコンを使い、デジカメ、ケータイを使い。
DSliteまで遊んじゃう。
晩年まで各種の演奏イベントに参加。
その上でこの世を去る準備もできてるわけです。
感服です。すげえよ、おばあちゃん。
葬儀屋さんに薦められ、
祖母の棺の中に十円玉を入れ、
納骨の後、焼けた十円玉を頂きました。
十円玉は、祖母の人生を忘れないよう、
そして自分がいつかこの世を去るときまで、
自分がいつか死ぬ存在であることを忘れずに、
祖母のようにパワフルに生きる決意として、
大事にとっておこうと思います。
そして、自分がこの世を去るときは、
祖母の時のように、自分も周りも笑っている、
そんな最期を迎えられたら至上と思います。
あばあちゃん、ありがとう。
おつかれさまでした。