『「A」』。森達也監督、1997年公開。
内容はオウム真理教(現Aleph)の内部を撮影したドキュメンタリー。
特に広報副部長(現部長)荒木浩という人物に焦点を合わせ、
当時の信者たちと、それを取り巻く環境を撮影している。
初めてこの作品を見たのは大学の授業。
授業名はうろ覚えだがメディア社会学。
たぶんここが自分の「メディアリテラシー」への入り口。
作品に衝撃を受け、レンタル店で発見し全編鑑賞したのが6年前。
先日、書店で文庫『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』を発見、
懐かしくなり文庫を購入してみるとともにもう一度「A」を鑑賞してみる。
当時とずいぶん違った印象というか、
監督が映像に込めたメッセージ(そんなものはないかもしれないが)を
前より読み取ることができたような気がする。
個人的な読み方になると前置きした上で、作品はおおむね3、4点の
話題を持っていると思う。
・マスメディアの振舞い
・警察と公安に対する不当逮捕の瞬間(と、ビデオカメラ)
・宗教、信仰とオウム
・荒木浩という人物
ストレートで面白いのは二番目。
私服警官(公安だっけ?以下文庫版にならって私服)が、
任意といいながら横柄にオウム信者の名前を聞き、
それをすり抜けようと逃げ出した信者にタックルし倒しておきながら、
タックルをしたほうが痛がる演技をし、タックルされ頭部を打ち意識を失った
信者が「公務執行妨害」と後に加わる
「傷害(加療三週間、実際には『被害者』の私服は翌日ピンピンしていたのだとか)」で
逮捕されるという瞬間。
これをビデオに収めていたため、もちろん不当逮捕ということは
簡単に証明できる。しかし私服はそのビデオ撮影を認めながら
堂々と不当逮捕をする。「マスコミなら警察公安を敵に回さない」と
考えたのだろうとのこと。
次にわかりやすいのがたびたびあらわれてくるマスメディア、
「報道陣」とのやりとり。隠し撮り、無許可で取材をしようとする
マスメディアの姿が映し出される。
この二つの素材の面白さは、わかりやすく「メディアのフレーム」の
外側からとった「フレーム」を提供している点。
普段テレビからしか見ることができない遠隔地のニュースを
さらにその「マスメディア」という媒体より外側からとることで、
マスメディアが報道しないものやマスメディアが捕らわれているもの、
そして日本社会の思考停止を表す。
当時それだけだった感想に対し、
今回改めてこの作品を通して宗教家である
オウム信者たちを見て、ふと、何かを思い出す。
「日本人は危険であるか?」というフレーズ。
これは漫画『ブラックジャックによろしく』13巻で
新聞記者のキャラクターが書いた文章の一部で、
精神病と犯罪に対するメディアの報道についてのコラム文章の最後の言葉。
当時の話をするならば、日本人はマスメディア以外のニュースソースを持たなかった。
だからマスメディアの映したオウム真理教のイメージを、
多くの人が違和感なく受け入れ、オウム真理教を社会悪として読み込んだ。
しかし、オウム真理教が何であったかをきちんと知っていた人が、
はたしてどのくらいいただろうか。
と、いう問題を「日本人は危険であるか?」というフレーズによって
自分は読み込んだのだった。
麻原という人物はオウムの中心だった。
では信者はすべて麻原の臣下だったのだろうか。
日本という国のトップを仮に総理大臣とするならば、
僕という日本国民は総理大臣の臣下と言えるだろうか。
大学の学長であった人物が犯罪を犯した場合、
その大学は犯罪集団だろうか。
日本人の罪を日本人はどの程度自分の共同体のものとして見れるか。
オウム真理教という団体は、宗教として見ると、
そこには非常にしっかりと確立されたものがあるらしい。
ヨガを取り入れ修行をおこなっているため、
修行により身体に確かな変化が起こり、
信者としては修行の成果を自分で確かに確認できる。
「カルト」というフィルターを通してみなければ、
(カルト、というのもマスメディアが作ったイメージかもしれない)
そこには精神的に高みを目指す信者たちが存在する。
こことそこに断絶があることは否定しないというか、
問題とするまでもないことである。
これを書いてる「私」は無宗教であって、
たとえば仏教やキリスト教の信仰のある人物とは、
決定的なところで断絶がある。
が、これは乖離とは別で、人間として僕が信仰のある人物と
仲良くなることは不可能ではない。
この可能性を捨て思考停止に陥り、絶対的にオウムを悪とみなし
信者に対する選択肢を「反省する」「オウムを脱会する」ということしか
用意しないというアクションを起こしたのが当時の日本社会であった。
当然、その方法では彼らを理解することは不可能だった。
すでにその社会とは断絶を隔てて彼岸にいる彼らにとって、
社会からの乖離は試練と受け取られることになる。
さらに言えば、麻原という人物の死刑が実際に執行されたところで、
信者の人物にとっては問題にならないのではないか。
(麻原という人物の価値はその肉や生というよりも
霊的なものとして受け取られているのだから、
死亡することによってむしろさらに絶対的なものとして
強みを増す可能性があると思う。)
そういう断絶に気づかずに自分たちが離れていきつつ、
「こっちにこい」という社会では、当然オウムの一連の事件に対する
「なぜ」はとけるはずもなく、オウムという団体を絶対悪にすることでしか
日本社会は納得を得られなかった。今も解けない。
さて、時代は変わり、マスメディアに対してのカウンターカルチャーとして
インターネットが登場した現代では、マスメディアに対する視座として
新たなものがあらわれている。
現状のマスメディアの報道の中立性に対しての疑問、
いわゆるマスコミを「マスゴミ」という視点。
「痛いニュース」などでよくみられるこの視点は、
当時の日本社会が持っていた思考停止と
さして変化しているところがない。
つまり情報媒体(マスコミ/インターネット)と、
それに対するリアクション(肯定/否定)の組み合わせが変化だけで、
受け取った情報に対して自分の立場が常に絶対の位置と考える
その解釈の仕方には変化がない。
「なぜ彼らはそうするのか」を問わずに
「なぜ自分たちと同じようにしないのか」からスタートする
この視点は、結局思考停止に陥ったまま。
「A」の続編「A2」のサブタイトルになる予定で結局はずされたという
「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」という言葉は、
この思考停止の中核に優しく触れていて、
価値観のこちらにいようとあちらにいようと、
その人達は生きていて、生きるために一生懸命である、
そういうことを言ってくれてる。
「マスゴミ」の人物も一生懸命で、何かのために仕事をしている。
そこから「なぜ」に進まない限り、思考停止に陥る限り、
ただ日本人(もしくは人間)は際限なく次の「マスゴミ」を見つけ、
わかりやすい対象だけを一方的に産みだしていくんだと思う。
「A」単体の感想はまた別に記述予定。