起き抜け昼食前にどのくらい書けるかに挑戦。
仕事してる僕が言うのもなんだけれど、
基本的に人間は必要以上に働かなくていい生物だと思ってる。
でもこれから書くことはニート賛美ではないので、
そこの所はお間違えなく読んでいただきたい。
働くという行為にはたくさんの物事が絡んでおり、
コミュニティへの所属、生活する費用を得る、
慣習への同調、たぶん挙げるときりがない。
でも、これらは複雑に絡んでてほどきがたいので、
どうしても労働一つをとって「働くべきか否か」という
話に陥りがちになってしまうと思う。
たとえば、ものすごい資産家が、
働かなくても次の次の代まで養えるほどのお金を持っていたら、
資産家の子世代は働くべきか。
このとき、働くべきだ、という側の理由として強固なのは
社会経験として働くべきというものになるだろうか。
(こういう立場の人って、そもそもその前の教育段階で
培うべき社会経験が足りてない場合が多そうだけど)
でも、それは究極的に仕事という場でなくてもいいわけだし、
ボランティア活動なり、なんなりでも常に付きまとう。
逆にいえば働いてたって社会性の足らないやつなんて多いはず。
(僕みたいに)
と思うので、僕は限定的状況で労働は推奨されるもんだと思う。
というか、労働は上記のような、現在でこそ複雑に絡み合っている
各種状況を充足させるためには有効な手段であるのだ。
お金を稼ぎつつ集団に所属し、社会性をはぐくむことができる。
良いことづくめ。
でも、それはもちろん社会と個人によって変化する。
先代が頑張って稼いだなら、次代の労働の動機から
生活資金を稼ぐという要素は消滅する。
このとき、労働が一般的に提供する他の要素が別のもので補われる、
もしくは当人が必要としないなら、労働はトータルで、
ある個人にとって非効率なものになると思う。
つまり、十分に蓄えを得て退職した人は、
必ずしも退職元に残る必要がないのと同じで、
ある年齢だからバリバリ働くべきというのは
慣習によってのみ支えられてるんじゃないのか、という話。
だから、高度経済成長、そして団塊の世代、
そういう世代から家を継ぎ、貯えを継いだ世代があって、
その世代の中で働かない人間がいるのは当然のことだと思う。
それは労働が、「働かない人間」を動員するのに十分な動機を
提供できていないっていうことなのではないだろうか、と。
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そういえば最近ニートって言わなくなったな…
ワーキングプアーの報道はまだちょこちょこ見るけれど。