「恋愛論」みたいなものがどうも怪しいと思ってしまう。
まずそもそも、なぜ恋愛を「論ずる」必要があるのかということについて。
とはいえ、恋愛がカバーするジャンルがあまりに広いので、
まずはそこを確定していかないといけないのだが、
そもそも恋愛というのの一般性をそもそも自分はあまり信じてないので
(僕の「好き」とあなたの「好き」はほんとに同じものなんですか?)
まずその辺についての定義が非常に面倒なことになりそう。
とりあえず、ざっくり言ってしまうと
「恋愛とはこういうもの」
「男は(女は)こういうもの」
「男は(女は)かくあるべし」
というような語り口のうち「論の対象が自分に向かない」ものは、
どうしてもその効用を疑う。
上記のとおり恋愛というものの一般化は怪しいと思う。
「恋愛」という語があるので、誰でもできる、誰もがする、
そういう前提に置かれながらこの恋愛というステージで
行われることは非常にバリエーションがある。
にもかかわらず共同幻想みたいにして保たれているのは、
個人的にはすごいと思うし、別の意味で盛り上がれる気がするけど、
これは個人が「恋愛論」を「自分以外」に向けてすることへの
協力な障壁になるような気がしてならない。
「自分と相手の恋愛は違うかもしれない」のに、定義もなしに
共同幻想の域を超えずに恋愛のことって語れるのか。
その上で語られる上記のような語り口は、
もはや論というよりかは、現状の自分の方法を正当化する、
そんで他人に押し付けるための体のいい手段になってやしないか。
つまり主語の問題なのである。
「私は恋愛についてこういうスタンスを取ろうと思う」と
「恋愛はこういうものであり、私はそれに従っている(そして、他者はそれに従うべきだ)」という違い。
後者の語り口は論のようで、極端に都合のいいものの気がするわけで。
たとえば、テレビなりネットなりで目にする「男は〇〇である」とか、
「女は〇〇である」という話をする場合、
異性の話であるなら、自分は基本的にその当事者になるわけではないので
責任を免れるし、同性の話であるなら、
責任を自分以外の外側に置いてあって、
自分はその影響を受けている客体になれる。
小難しいのでブレークダウン。
つまり「ひとりひとりちがうはず」のものなのに、
「みんなが/男が/女が こうだからしょうがないんだよ」
「そうするべきなんだよ」
という話がされているのは、
「自分は間違ってない」
ということ言いたいがための壮大な遠回り聞こえるのである。
…って書いてても、これも結局一つの恋愛論にすぎないもんだから、
他人から逆の意見を言われたら、
こう書いている僕は「自分の間違いの可能性」も
受け入れなきゃ嘘になってしまうわけである。
そこには上記の、自分が怪しいと思う恋愛論を
受容することも可能性として残ってくるわけで。
うーん、恐ろしい。
複雑性の回避なんですけどね。つまるところね。