現実をきちんと見据えたほうがいい。世の中にはいくらかのトップアイドルがいる。その下に多数の、旬が過ぎればすぐに世間から忘れられてしまうようなそこそこのアイドルがいる。そしてそのさらに下には、アイドルになれなかった無数の普通の人間がいる。
塔のてっぺんの席の数は、数えるほどしかない。塔の中に入ることすら難しいのに、塔の中に入っても、満足に飯を食い続けられるかはわからない。きらきらしたお宝を手に入れることができる者よりも、ただ若さと時間と金と労力を失っていく者のほうが圧倒的に多い世界。そんな世界に誘おうとするのは、人を騙しそそのかす悪魔となにが違うだろうか?
部屋の中にアラームが鳴り響き、俺はそれを半自動的に叩いて止める。朝。寝覚めは最悪だった。寝て起きれば、昨日を冷静にみつめることができるようになる。俺は思い返す。適当にスカウトをしていた結果、一人の少女が、アイドルをやりたいと言った。
俺はそれを受け入れた。不覚にも。
どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからない。心の奥底から、俺を冷笑する声が聞こえてくる気がした。
「……おはよう」
俺以外誰もいない部屋の中で誰へともなくそう言って雑念を散らし、布団から体を起こして洗面所へと向かう。仕事をする。生きるのにも。よけいな記憶から目を背けるのにも、それ以外に方法はない。
新ユニットの仕事を進めていく。先輩が選んだ構成アイドルのうち、すでに美城プロダクションに所属しているアイドルには、顔合わせの日程をメールで伝えた。それまでにすべきことは、レッスンの手配、曲や振付の打ち合わせ、宣伝活動の計画。事務的なことは先輩の下で働いたときの手順をたどっていけばいい。
問題は頭脳労働だ。どのアイドルをどうプロデュースすればいいのか。俺にはさっぱりわからない。
わからなくても、俺のせいでアイドルたちが不人気に終わるのは気分が悪い。だから、俺はせめて現状維持に努める。あとは、先輩が早く快復して戻ってこれるように祈ろう。
作業が一段落して、俺はひとつ息をつく。午後までかかって、ひとまずの事務作業を片付けた。卓上のデジタル時計を見る。
「いまならまだ、荒木比奈のスカウトに行けるか……」
言いながら、気持ちはずっしりと重たくなった。それでも自分を奮い立たせて立ち上がる。荒木比奈への接触は、どうせ顔合わせより前には片付けなくちゃならないことだ。早いほうがいい。
上着のジャケットを着ると、プロデューサールームの内線電話が鳴った。俺は受話器を取る。
「受付です。あの……お客様かどうかわからないのですが、そちらの名刺をお持ちの方が」
「俺の?」
俺は首をかしげる。特に誰かと会う予定はない。
「はい。自分はアイドルになるんだとおっしゃってます。弊社に登録されている様子は無いですし、入館証もお持ちでなく、来客予定のリストにもなかったので……」
受話器の向こう、受付嬢は困ったような声でそう言った。俺の脳裏には一人の人物が思い浮かぶ。
「……ひとまず、そちらへ向かいます」
「お願いします。今は警備員が止めています」
俺は受話器を置くと、ロビーへと向かった。
「ふんんぬうーーーーーーーーっ!」
プロダクションのロビーには力のこもった声が響きわたっていた。
入館ゲート付近に声の主を見つけて、予想が的中した俺は脱力した。見覚えのある襟付きの真っ赤なシャツ。きのうスカウトに応じた日野茜が、入館ゲートを乗り越えようとして、警備員と組みあっている。
「ですから、いま呼びましたから、お待ちくださいって!」
「なんの、これもアイドルになるための障害っていうことですね! 乗り越えてみせます、全力プゥーーーーーッシュ!」
会話が成立していない。俺は小走りにゲートへと向かう。困り顔の受付嬢に会釈して、組み合う警備員と日野茜のところへ。
「あー、すいません、すいません」
割って入って警備員から茜を引き離す。茜は、俺を見るとぱっと顔を輝かせた。
その顔があんまりに晴れやかで、俺の心の奥がうずく。
「プロデューサー! 来てくれたんですね! 日野茜、アイドルになるべく、やってまいりましたよ!」
俺は困り果てて笑っている警備員に頭を下げてから、茜に向きなおる。
「手続きの日程は伝えていたはずだよな」
「はいっ!」茜はロビーに響き渡る大声で返事をする。「でも、いてもたってもいられなくなりました! なにか先に、アイドルになるためにできることがあればと思ったんです!」
俺は思わずこめかみを押さえた。
「すいません、関係者です。来客者用カードを」
俺は受付嬢へ言う。受付嬢は苦笑いしながら、首掛けストラップつきのカードを渡してくる。それを茜に寄越した。
「ほら、これで、ゲートをくぐれるから」
「おおっ、これが! 扉を開くカギなんですね!」
茜は渡されたカードを首にかけると、大股でゲートをくぐった。警備員のほうを得意げに見る。警備員も苦笑いだ。
「正式に社内に入れるようにする手続きをするから、着いてきてくれ」
「はいっ!」
茜の大きな声は、発せられるたびにホールに響き渡った。そのたびに、俺は胸がずしりと重くなるのを感じる。平穏に仕事をしたいはずだったのに、とても面倒な道へと進んでいるような気がした。
社員やアイドルを管理している部署へと赴く。茜をプロダクションのアイドルとして登録する手続きを終えれば、正式な入館証を渡すことができる。
鼻息荒く興奮状態の茜をベンチへ座らせ、俺は部署のカウンターで入館証の発行を希望した。
「どのタイプの登録ですか?」
若い男性社員に問われて、俺は考える。ここで正式に茜をプロダクション所属のアイドルとして登録することもできる。だが、俺は先輩の補欠だ。先輩が戻ったらすぐにでもプロデューサーの座を明け渡す。そのとき、茜が先輩の眼鏡にかなわなかったら? そのときは、抹消の登録も必要になる。――アイドルになりきれなかった者への、心の痛むような宣告をしなくてはならない。
『わたし、アイドルにはなれなかったよ』
俺の脳裏に、苦い記憶が再生される。
「アルバイト証で」
蘇りかける記憶を遮るように、俺はそう言った。一時的なエキストラ出演者などに対応するためのアルバイト証なら、正式なプロフィールを作る必要もないし、どんなことになっても手続きは最小で済む。
「はい、じゃこちらの書類ですね」
俺は書類を受け取ると、それを茜のところへと持って行った。
これが最良だろうと、自分の心に言い聞かせながら。
「……ついてこなくてもいいんだぞ」
俺の言葉に、茜は大きく首を振った。
「いえっ! マネージャーも最初は雑用から! なんでも見学して慣れたいんです!」
茜は鼻息荒くそういって、腰のあたりで両手に握り拳を作り気合を入れる。
俺たちは荒木比奈の自宅へと赴いていた。一人で行くつもりだったが、茜がぜひ着いて行きたいと言いだしたのだ。プロデューサー業の見学をしてもしかたないとも思ったが、俺は同行を認めることにした。俺一人でも十分不審者扱いされるだろうだが、茜が加わればより挙動不審だ。比奈が怪しんでスカウトを断るかもしれない。そのほうが俺の仕事は楽になる。
そんな俺の思惑など知らず、茜は移動のあいだじゅう、ずっと支給された入館証を眺めては嬉しそうにしていた。
比奈の家の前までたどり着き、俺は表札の部屋番号と手元のプロフィールシートとを対照した。三〇二号室。ここで間違いない。
事前に記載された電話番号に電話をしてみたが、応答はなかった。最近では知らない番号の電話には出ない人も多いというから、おかしなことではない。
自宅に不在なら、スカウトを試みたが失敗したということにできる。しかし、誰かしら在宅はしているようだ。室内は電気がついているようだったし、玄関の横にある電気メーターはぐるぐると高速回転している。
「ここですね! さあ、プロデューサー! あらたな仲間との出会いです!」
「わかったわかった、落ち着いてくれ」
茜をなだめ、出ないでくれよ、と願ってから、インターフォンのスイッチを押す。
数秒立ったあと、部屋のおくからドタドタと足音が近づくのが聴こえ、それから玄関の扉が勢いよく開いた。
「突然の訪問、失礼します、わたくし……」
「あああああやっと来たっスね! 待ってたっス!」
鬼気迫る声で俺の挨拶を遮ったのは、確かに先ほど確認したプロフィール写真の女、荒木比奈その人だった。野暮ったいジャージまで写真と同じだが、実物の比奈の目にははっきりと濃いくまがあらわれている。寝不足なのだろうか。
「時間がないっス、二人とも、まずは中に入って!」
「は……?」
比奈は呆気に取られる俺たちにギラギラした目線を送ると、俺の腕をつかみ、部屋の中へと引き入れようとする。
「ちょ、ちょっと」
「とりあえず中で“すかうと”のお話でしょうか? 行きましょうプロデューサー! おじゃましまーす!」
茜が元気よく挨拶し、俺を比奈の自宅の玄関へと押し込んだ。
「そう、“すけっと”待ってたっス! どうぞっス!」
「いやちょっと、おい待てって!」
俺の願いは一切聞き入れられないまま、入ってきた玄関の扉は茜によって閉じられた。茜は鍵と、ご丁寧にチェーンロックまでかける。
「ちらかってるっスけど、締め切り前ってことで勘弁してほしいっス」
比奈は廊下を奥の部屋へと歩いていく。俺も仕方なくあとに続き、さらにその後ろから茜がついてきた。
部屋に入る。確かにちらかっていた。だが不潔というほどではない。嫌な臭いなどは漂ってこない。机の上にはデスクトップパソコンと液晶ペンタブレット、それと大量の紙類。ざっと見たところ、マンガの原稿のプリントアウトのようだ。壁沿いに配置されているソファーにはタオルケットが畳まれている。部屋の一角のキッチンにはコンビニエンスストアの弁当の残骸が見え隠れするゴミ袋と、缶コーヒーや栄養ドリンクが多数。カーディガンが椅子に掛けられているが、それ以外に衣服や洗濯物などが散乱している様子はない。ざっと見渡して、男の俺が視線を向けて失礼に当たる場所はなさそうだ。
「プロデューサー! これ、なんの道具ですか?」
茜が液晶ペンタブレットやマンガ原稿を見て目を輝かせている。
俺はこの状況を分析した。おそらく、比奈は俺たちを誰か別の来客予定者と勘違いしている。さっき比奈は、茜の“すかうと”という声に対して“すけっと”と返事をしていた。きっと締切直前の修羅場で、マンガ制作を手伝う助っ人を呼んでいたのだろう。
となれば、いまの俺たちは招かれざる客。呑気にスカウトの話などしていい場面ではない。これは交渉不成立ということで退散すべき場面だろう。
「ええと、荒木さん、私たちは」
「いやー突然の助っ人、OKしてもらえてほんっとーに助かったっス! 今回ばかりはさすがに間に合わないと思ったっス。感謝の言葉もない……さっそく、作業の説明をしていいっスか!」
話を遮られて俺は口ごもる。比奈の目は全然笑っていない。時間がないことをアピールするオーラが体の周りに見えるかのようだった。とても自分たちが助っ人ではないことを言いだせる雰囲気ではない。怖い。
「表紙はできてるっス。現状はペン入れの終わった原稿が八ページ、ネームまでの原稿が十ページ。入稿は明日の十時っス」
言われて、俺は時間を逆算する。今が午後四時前。素人目に見ても到底無理ではないか、という予測が頭をよぎったときだった。
「……その目!」比奈は俺の両肩をがしっと掴んだ。「無理だと思ってるっスね!? 大丈夫っス! 絶対間に合わせてみせるっス!」
比奈のすさまじい剣幕に、俺はつばを呑んだ。比奈は俺の肩から手を離し、液晶モニターの前に座る。画面の反射でぶ厚いレンズの眼鏡がギラリと光った。
「ふ、ふふふ……やってみせるっス……ジェバンニは一人で一晩……こっちは三人もいるっス、楽勝に決まってるっス……ふふ……」
意味の分からないことを呟きながら、比奈は怪しく笑う。
「ええと、これは! なにをすればいいんでしょう!」
茜がそう尋ねると、比奈はふふふ、と低くあやしく笑って、マウスを二、三回クリックした。パソコンの近くにあるプリンターが音を立て、なにかを印刷し始めた。
「これから二人には、主にベタやトーンの作業をしてもらうっス」比奈はプリンターから紙を引っ張り出す。「ペン入れまで終わっている原稿はここに指示を書いていくので、二人はそれに沿って作業を進めてほしいっス。操作は大丈夫っスよね?」
比奈は指でパソコンを示す。
「すいませんっ! わかりませんっ!」
茜が大きな声で言い、その場で頭を下げた。比奈は目を丸くする。
俺は身構えた。この状況で比奈の神経を刺激するようなことは、まずいような気がした。
が、比奈は数秒考えるようにしたあと、デスクの引き出しを開けてなにかを取り出した。小箱のようなものを持ち出して、テーブルの上に置き、中を開く。筆とインクの瓶が入っていた。
「じゃあ、女の子の助っ人さんは……」そこまで言って、比奈は首をかしげる。「そう言えば、名前を聞いてなかったっス」
「はいっ! 日野茜ですっ!」
「茜ちゃん。よろしくっス」
「よろしくおねがいしまぁっす!」
茜の返事はいちいち近所迷惑になりそうなほどうるさいのだが、比奈は気にしていないようだった。修羅場すぎて、マンガの完成に関係のない感覚や常識の一部をカットしているのかもしれない。
「茜ちゃんには、アタシの指定した場所をベタ……この墨で黒く塗りつぶしていって欲しいっす」
「わかりましたぁっ!」
その素直さはどこからくるんだよ、と茜に内心でツッコミを入れた。これもアイドルのスカウトの一部だとでも思っているのだろうか。
「そんで、そっちの助っ人さんは、大丈夫っスよね?」
比奈は笑顔で俺の方を見る。笑顔なのに目だけが脅すような威圧感を放っている。
もちろん、俺もマンガなんて描いたことはない。
「つ、使うソフトは……」
俺は苦し紛れに尋ねた。
「ああ、たぶんどれも似たようなもんっスから、慣れっスよ、大丈夫っス」
比奈はそう言って、俺にモニターの前に座るように促した。なにが大丈夫なのか全くわからないが、俺はモニターの前に座る。
立ち上がっているソフトの画面を見て、マウスでいくつかのメニューをクリックしてみる。ざっと見たところ、画像編集ソフトの応用が利きそうだ。販促物なんかをデザイナーに発注するときに、イメージを伝えるための簡単なものを作るくらいのことなら経験があった。
「こんな感じで指示を入れてあるっス」
比奈が原稿のプリントアウトを渡してくる。紙面には、モニター画面に表示されているものと同じ原稿に、スクリーントーンや集中線などの指示がメモされていた。
俺はパソコンを操作し、キャラクターの服部分にスクリーントーンのパターンを入れる。
「オッケーっス! そんな感じで頼むっス!」
比奈はそういって俺の背を軽く叩くと、液晶タブレットに向かった。
「よおおおおおっし! 全力でいきますよおおおおおお!」
茜も腕まくりをして気合を入れている。
俺は二人の顔を一度ずつ観た。二人とも作業に入っている。完全に押し切られた。今更人違いであるとは言いだせない。
ひとまず、観念して作業を開始することにした。もし予定通りの助っ人が来れば、その時に事情を説明して交代すればいい。俺は上司に、出先から直帰になる旨をメールで送信する。それから作業指示に沿って、原稿をはじめようとし――
「ああっ!」
茜の大きな声がして、俺と比奈はそちらを見た。
茜は困ったような顔で比奈を見る。
「すこしはみ出してしまいました! ……どうしましょう」
「ああ、大丈夫っス、ちょっとならホワイトで修正すれ……ば……」
比奈は茜の手元の原稿を見ながら言いかけ、絶句した。
俺も茜の原稿を見る。……“すこしはみ出した”程度ではなかった。登場人物の髪型が全てアフロになっている。
俺は肝が冷えた。おそるおそる比奈のほうを見る。比奈はじっと原稿を見ていた。
全員が三秒沈黙。恐ろしく長い三秒だった。
「茜ちゃん」比奈は少し低い声で言った。「やっぱり……茜ちゃんには買い出しを頼むっス」
比奈はそう言うと、机の横に雑多にまとめられていた紙束の一番上の一枚に、さらさらとメモをしていく。
「よし、これをお願いするっス、重要な任務っス!」
比奈から渡されたメモを茜は真剣な目で読み、それから立ち上がる。
「了解しましたっ!」
茜は鼻息荒くそう言って部屋を出ていこうとするが、廊下へ出るドアの前でぴたりと止まり、こちらを振り返った。
「そういえばっ、私、お金を持っていませんっ! どうしましょう!」
「あー……」比奈は後ろ頭を掻く。「そういえば、アタシもたぶん、いまは財布カラッポっス……」
そして、比奈と茜は俺のほうを見た。
「……」
俺は観念して財布から五千円札を取り出すと、茜に渡した。
「行ってきまあっす! 全力ダーッシュ!」
茜は勢いよく部屋から飛び出していった。ドアの閉まる音がする。
「いやー面目ない。必ず後で返すっス」
比奈はそう言いながら、茜がベタ作業をしかけた原稿を紙束の中に押し込んだ。
それからは黙々と作業が続いた。比奈は原稿に指示を入れて俺に渡し、俺はその指示に従って効果をつけていく。俺の作業が終わったら、比奈が最終調整をする。単純な作業の繰り返しだが、最近は頭を悩ませるようなことばかりだったので、それに比べれば気楽なものだった。
茜は息を弾ませて買い物から帰ってきたが、ちょうどその時に外から夕方五時を知らせるメロディが鳴った。俺は茜を家に帰すことにし、比奈もそれを了承した。
部屋の中に比奈と二人になり、作業を続けさらに数時間。すっかり日が暮れたころになっても、比奈が呼んだはずの助っ人は来なかった。俺は比奈に、助っ人について尋ねようかと思ったが、それでは比奈と二人きりで作業をしている俺はいったい何者なのか、ということになってしまう。
結局、俺は言いだせずに作業をつづけた。
その後、深夜になり、日付が変わっても助っ人は現れなかった。俺はそのころようやく、もう助っ人は来ないものと諦めることにした。未完成の原稿はあと八ページ。俺は二本目の、比奈は三本目のエナジードリンクを呑み干した。
「お、終わった、っス……入稿、完了……!」
時刻は午前九時五十分。そう言って比奈はそのままパソコンのそばの床に倒れ込んだ。
「本当に、助かったっス……」
比奈はそう言うが、すでに目が半分寝ている。最初にあったときよりもくまはさらに濃くなり、顔色も悪い。
「と、とりあえず……寝るっス……助っ人さんも……こんなところでよかった……ら……休ん……」
そこまで言って限界に達したのだろう、比奈は目を閉じて、寝息を立てはじめた。
俺はソファーのうえに畳まれていたタオルケットをとって比奈にかけてやる。
「初対面の男がいるってのに、呑気なもんだよな……」
俺は無防備な比奈の寝顔を一瞥すると、ジャケットと荷物を取って立ち上がる。まさか徹夜になるとは思わなかったが、これでスカウト失敗ということでいいだろう。
玄関まで来て、扉をみてはっとした。この家の鍵がどこにあるのか判らない。女の一人暮らしの部屋で、家主が熟睡しているなか、鍵をあけたまま出ていくのも気が咎める。
俺はしばらく迷って、比奈が目覚めてから出ていくことにして、部屋の中へと戻った。会社にはコアタイムへの出社が間に合わないことを連絡する。
「ふぁ……ぁ……」
口から欠伸が漏れた。限界のようだ。俺は比奈から離れたあたりで横になり、そのまますぐに眠りに落ちた。
「日野茜っ! ただいまもどりましたぁっ!」
脳に刺さるようなでかい声が耳に入って、俺は夢も見ないほどの深い眠りから強制的に引き上げられた。
「ん……」
体を起こす。まだ睡眠が足りない。床で寝ていたせいか、身体のあちこちが少し痛む気がした。
「マンガはどうでしたか! まにあいましたか!?」
制服姿の茜が部屋に立っていた。学校が終わってそのままここに来たのだろう。外はまだ明るい。ということは、夕方前くらいの時間だろうか。
「う~ん……なんスか……?」
荒木比奈のうめく声が聞こえた。眠たげに目をこすりながら、比奈は体を起こす。
「ああ、茜ちゃん……なんとか間に合ったっス。お二人のおかげっスよ」
「よかったです!」
茜に言われて、比奈は穏やかに微笑む。髪も顔もぼろぼろだが、さきほどまでの緊迫した雰囲気ではない。これが素の彼女なのだろう。
「えーっと、時間は……ああ、集中するために携帯の電源落としてたんでした……」
比奈はデスクの上の携帯電話を操作する。
「ん~、三時半すか。さすがにまだ寝足りないすね、二徹になるとは思わなかったっス……っと、メール来てたっすね……」
比奈は携帯電話の画面を見つめて、それから首をかしげる。
「『ごめん、派遣するはずだった助っ人の二人、用事が出来て来れなくなった』……えーと……」比奈は俺と茜を一度ずつ観る。「ってことは、お二人は、どちらさんっスかね?」
まだ目が覚めきっていないのだろう、呑気な比奈の疑問に、俺は苦笑いを返し、茜はそもそもなにが起こっているのかよくわかっていない様子だった。
「はぁ、なるほど……そりゃ、勘違いして申し訳なかったっス……」
俺が事情を説明すると、比奈は俺が渡した名刺を眺め、頭を掻きながらそう言って謝った。
「あんときの罰ゲームっスね……」比奈は腕組をして唸る。「勝負に負けた人がアイドルのオーディションにシャレで申し込むって条件でボドゲしてたっス……まさかこんなことになるとは」
「弊社としては、荒木さんにぜひ参加していただきたいと考えていますが……もちろん、無理強いはできません」
できるだけ、比奈が断りやすいように組み立てた文章を、俺は口から吐きだした。
茜は俺のとなりに座って、らんらんと目を輝かせて比奈を見ている。
「ん~」比奈はまた頭を掻く。「とりあえず……アタマ働いてないんで、シャワー浴びてくるっス。そのあいだに考えるんで。急ぎじゃなかったら、もうすこし待っててもらえるとありがたいっス」
「あ……はい、どうぞ」
俺がそう返事をすると比奈は立ち上がり、引き出しからバスタオルなどをとりだしてバスルームへと向かった。
「……はぁ」
茜がいるとはいえ、極度の寝不足とはいえ、知らない男がいる中で無防備なものだ。
「プロデューサー、比奈さん、来てくれるといいですね! うー、待ちきれません!」
茜は立ち上がり、なぜかその場でスクワットをはじめた。昂揚した気持ちのやり場がないのだろう。
「ああ……なあ、俺は部屋の外に出ておくから、比奈がシャワーから上がって、話ができそうになったら呼んでくれ」
「了解ですっ!」
茜は元気よくそう言い、俺はふらふらと部屋の外に出た。マンションの玄関近くに自販機が見える。俺はそこまで降りていくと、微糖の缶コーヒーを買い、ぐいと煽る。ちひろさんのドリンクほどではないが、糖分が疲れた頭を多少でも回復してくれる。
比奈はスカウトにどう返事をするか。順当に考えて、まず受けないだろう。荒木比奈という人物はどう見てもインドア派、オタクの部類だ。人前に出て輝くことにあこがれを抱くどころか、むしろ忌避するようなタイプ。
だからこそ不思議に思う。なぜ先輩は、比奈に目を付けたのか。
「結局、それが判らない俺は、プロデューサーに向いてないってことなんだよ」
どこへともなくつぶやいた。
思考をほかのところへ巡らせる。マンガを作るのはなかなか新鮮な体験だった。ことによると二度とチャンスはないかもしれない。
「あのマンガ、面白かったな」
作業に必死でしっかり読み込むことはできなかったが、比奈の漫画は躍動感にあふれ、十八ページでストーリーもまとまっており、絵も巧かった。印刷所の締め切りを気にしていたということは、アマチュアの同人誌作家だろうか。プロでも十分通用しそうだ。
あとで落ち着いて見せてもらいたいとも思うが、仕事のことを思えば、これでお開きになるのが一番いい。
そのことに、多少の名残惜しさを感じていたときだった。
「プロデューサーっ! 戻ってきてくださーいっ! 比奈さんがシャワーからあがりましたよーっ!」
ご近所に聞かれたらあらぬ誤解をされそうな大声がきこえたので、俺は空になった缶をゴミ箱に放り込むと、比奈の部屋へと戻った。
「……っ」
玄関に入って、俺は息を呑んだ。
荒木比奈が変貌していた。
先ほどまでの野暮ったいジャージではなく、カジュアルなワンピースを着ている。睡眠で体力を取りもどした顔と肌は血色を取りもどし、締切前の緊迫から放たれた、すこし眠たげで無防備な表情が色気を感じさせる。シャワーから挙がってしっとりと濡れた髪。機能だけが強調されセンスの欠片もなかった眼鏡もまだつけていない。風呂上がりの女は割増で見える。が、こんなにも変わるか? 先輩はこれを、あのプロフィール写真だけで見抜いていたとでもいうのだろうか。つくづく恐ろしい。
「どうしたっスか? ……まだドライヤーもかけてないので、あんまり見られるとその、恥ずかしいっス」
比奈は手に持っていたバスタオルで顔を隠しながらそう言って、俺を部屋の奥へ行くよう促した。俺は我に返って、靴を脱いで奥へと向かった。居間では茜が、プリントアウトされた比奈のマンガを食い入るように見ていた。
「準備が出来たら話しかけてくれって言ったが、あれはまだ話ができる状態じゃないだろ」
茜に文句をつけるが、茜はマンガに集中していて返事をしない。俺は肩をすくめた。
しばらくして、茜はマンガの原稿束を丁寧にそろえて机の上に戻すと、放心したようにはあっと息を吐いた。
それから勢いよくこちらを見る。
「プロデューサー、すごいです、このマンガ」
「あ、ああ」
茜の声色が真剣だったので、俺は戸惑った。茜の目が読めと言っているように思えて、俺は机の上の原稿を取る。
作業を通して一度は読んだはずの原稿をもう一度、読み進めていく。一ページ、一ページ。
昨日何度も読んだはずなのに、あらためて完成品を通しで読んで――心が震えた。
俺は作品から受け取った熱量を言葉にする手段が見つからないまま、原稿束を丁寧にそろえて、机の上に戻す。茜と同じく口から溜息が漏れた。
「……私たち、これを作るお手伝いをしたんですよね」
「ああ」
茜に言われて、ようやくそのことに思い至った。この原稿の一部に、自分が関わった。それがどうにも、実感として現れてこない。
そういえば、同じようなことがあったと思い出す。先輩がプロデュースしたアイドルのステージ。華々しく、ステージライトと声援とを浴びて、輝いていたアイドル。先輩は『お前もこのステージを作ったスタッフなんだ』と言ってくれた。実感はなかった。
――実感することを、拒んでいたのかもしれない。
「おおーっ! 私! なんだか心がアツくなってきましたっ! いてもたってもいられないです! 比奈さん、まだですかぁっ!」
「お待たせしたっス」
茜が立ち上がったちょうどそのとき、髪を乾かした比奈が部屋に戻ってくる。俺と茜に向かい合うように腰を下ろした。俺も姿勢を正す。
「いちおう、もう一度――弊社としては、荒木さんをお迎えしたいと思っています。もちろん、無理にお願いできることでもありませんので、ご自身でよくお考えになって、お返事をいただければ」
俺がそう言うと、比奈は俺たちとのあいだの床に目線を落とした。
「アイドル……キラキラしてる子たちっスね。……アタシはそーいうのとは、無縁っていうか」
「……ええ」
俺は相槌を打つ。やはり、比奈はアイドルをするような人間ではない。
「歌ったり踊ったりとか、経験ないですし。マンガだって、フツー描いてる人は前に出ませんし。裏方とかが似合うキャラなんスよ、アタシは」
「……ええ」
このままなら、荒木比奈は断るだろう。
それでいいんだ。俺はそう自分に言い聞かせた。
同時に『自分言い聞かせた』ことに気づく。どうしてだ。これが一番いいはずだろう。
「だから、アイドルとかは、誘ってもらって申し訳ないっスけど――」
そこまで比奈が言ったときだった。
「やりましょうっ、比奈さん!」
割って入ったのは茜だった。茜は勢いよく立ち上がる。
「アイドル! 私、比奈さんといっしょにアイドルやりたいんですっ!」
俺も比奈も、呆気に取られて茜を見ていた。やがて、比奈は困ったように笑う。
「いやー、アタシなんて……茜ちゃんにそう言ってもらえるのはうれしいっスけど、アタシは茜ちゃんみたいにかわいくないですし、キラキラもして――」
「キラキラしてますっ!」
茜は比奈の言葉を遮るように言った。茜は机の上の原稿を指さす。
「比奈さんのマンガ、すっごく面白かったです! すいませんっ、なんて言ったらいいかわかりませんっ! だけど、キラキラしてました! あんなマンガを描ける人が、キラキラしてないわけがないじゃないですかっ!」
茜はそう言い切った。
比奈は驚いたように目を丸くしている。ほんの少し、頬があかく染まっていた。
「あ、はは」比奈は我に返り、恥ずかしそうに頭を掻いた。「マンガ褒めてもらえるのはめちゃくちゃうれしいっスけど……でも、アイドルとはやっぱ、別物っすよ、ね、プロデューサーさん」
比奈は俺のほうを見る。
「確かに、一緒ではない、けれど――あのマンガは、本当に、面白かった、掛け値なしに。あれはきっと、空っぽな人間には、ぜったいに描けない。比奈さん、あんたの心のなかにはきっと、なにかがあるんだ。人を惹きつける、なにかが」
それは本心だった。言って俺ははっとする。先輩は、この『なにか』を、比奈に見出していたっていうことか。
俺に言われて、比奈はふたたび目を見開いて、さっきよりも顔を赤くする。
「ね、だから!」茜はずいと比奈に詰め寄る。「アイドル、一緒にやりましょう!」
比奈は俺と茜の顔を一度ずつ見て、それから視線をもう一度床に落とし――それから、俺のほうを向いて、ふっと笑った。
「しかたないっスね。原稿も手伝ってもらっちゃいましたし。ほんとに、なんでアタシなんだか、さっぱりわかんないっスけど――」
比奈はそこで、俺の目の奥を見詰める。
「比奈さんが、やっていただけるなら」
俺は混乱していた。俺は比奈にアイドルをやってほしいのか? それとも、やってほしくないのか? 自分で自分が判らなくなっていく。
「ぜひ、参加していただければ」
「やりましょうっ!」
茜が嬉しそうな声をあげる。
比奈は、ひと呼吸おいてから、口を開いた。
「……わかったっス。どうせ半ニートみたいな立場ですし……プロデュース、よろしくお願いするっス」
そうして、比奈はぺこりと頭を下げた。
茜がひときわやかましい、喜びの雄たけびをあげた。
「はー、なんだかものすごいことになっちゃったっス。アタシ、まだ夢の中なんじゃないっスかね?」
比奈はそう言って笑う。
「そういえばプロデューサー、夜通し手伝ってもらって悪かったっス。シャワーくらいなら貸せるっスけど……どうっスか?」
「いや、俺は……遠慮しておくよ、戻って浴びるから」
さすがに、女性の部屋のシャワーを借りるわけにはいかないと思った。
「そうっスか……じゃ、茜ちゃん、浴びてくっスか?」
なんでそうなる、というツッコミを入れる間もなく。
「いいんですか! では、お言葉に甘えて!」
浴びるのかよ。遠慮しろよ。お前はきのう家に帰っただろうが。
比奈はバスタオルを取り出すと、茜をバスルームへと案内した。
比奈が戻ってくる。やがて、シャワールームからは水音が聞こえ始めた。
「さて――」比奈は机から眼鏡を取ると、それをかけて、俺の前に座った。「プロデューサー、訊きたいことがあるっス」
比奈は真剣な表情だった。俺が黙っていると、比奈が続ける。
「プロデューサー、アタシや茜ちゃんをプロデュースするって話、どこまで本気なんスか?」
「……っ」
俺は答えに窮した。比奈は眼鏡のレンズの奥から、こちらを試すように見ていた。 シャワールームからは水音が鳴り続けている。
「アタシを誘ったときの言葉、ちょっとだけ迷いを感じたっス。アタシを誘いたいからここに来たはずなのに、プロデューサーの態度はどっちでもいいって感じだったっス。そんなんで、ちゃんとプロデュース、してくれるんスか? ……一応アタシ、マンガ描いてるくらいっスから、人間観察力は高いんスよ」
比奈に問われて、俺は少し迷い――それからひとつ息をついて、観念して俺の立場を話すことにした。ここまで言われてしまって、即答で否定できなければ、もう嘘をついても通らないと思ったからだ。
先輩から急に引き継いだプロデューサーという立場、茜との経緯、本当は仕事を適当にやって、実家に帰りたいという俺の意識。全てを聞いて、比奈は少し目を細めてふーん、と息を吐いた。
「なるほど、判ったっス」
「……どうする、やっぱり辞めるか?」
俺が尋ねると、比奈は首を横に振った。
「まずはお試しってことで、アイドルやってみるっス。一度OKしたことをひっくり返したくはないですし、茜ちゃんにも悪いですし。自信はないっスけど。それに……マンガ褒めてもらって、嬉しかったですし」
比奈はそう言って姿勢を崩した。足を投げ出して、後ろ手を床につき、天井のあたりを眺める。
シャワールームの水音が止まった。
「いま聞いた話は茜ちゃんや、これから会うほかのアイドルのみなさんには秘密にしておくっス」
「助かる」
俺がそう言うと、比奈は目を細める。
「アタシ、共犯者になっちゃいましたね。この先、アタシも実際にアイドルやってみて、ちゃんと続けられるかはわかんないっスけど……元のプロデューサーに引き継ぐとしても、それまでのあいだ、茜ちゃんたちをがっかりさせるようなことには、しちゃだめっスよ」
「ああ」
返事をしながら、俺の心の奥がうずいた。記憶の底のアイツが蘇る。
――アイドルになりきれなくて、がっかりしていた、アイツが。
「ま、そんなに心配はしてないんスけどね」
比奈にそう言われて、俺は首を傾げた。
シャワールームの扉が開く音がする。
「プロデューサーはたぶん、そこまで無責任にも悪人にもなれないヒトっスから。ヒミツ、ちゃんと守り通すタイプのヒトっスよ」
比奈はそう言って、いたずらっぽく笑った。
・・・END